思い出のヴェズレーVezlay(仏)
ブルゴーニュ地方のヴェズレーはブドーの産地。
ワインは修道院から生産が始まった。
(Basilique Ste-Marie-Madeline)
サント・マドレーヌ教会
サント・マドレーヌとは悔い改めのマドレーヌのこと。
南仏にあった彼女の聖遺骨をここに運んだことから、ここが
知られるようになった、、、、。(実際はストーリーは違うようであるが)
帆立貝はスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーらへの
巡礼の象徴。ここヴェズレーは出発地の一つである。
数年前、ヴェズレーを歩きました(トータルで3,4回目)。
中世歩きで最も好きな場所のひとつである。
また、ヨーロッパの中世の村々を歩きたくなりました。
ヴェズレー
モザイクの世界 ラヴェンナを歩く①ガッラ・プラチディア霊廟 (伊)
「ガッラ・プラキデイアの波乱に満ちた生涯は、できすぎた歴史小説の粗筋を読んで
いるようなものである。貴族の恋愛、陰謀、流血の複雑な物語には、当時の名だた
る大都市や主な軍勢が一通り登場する」 (ジョン・ラウデン)
(430~50年頃 ギリシャ十字形礼拝堂)
ボローニアの後、ラヴェンナを訪れた。二度目である。
今回は、前と違って訪ねる場所を絞りました。
サン・ヴィターレと今回お送りするガッラ・プラチディア霊廟
である。
(簡易デジカメにてyoku撮影)
中はまるで洞窟のようであるが、しかしその天井は神秘性に満ちていました。
ドームの天井はまるで中世のプラネタリウム。そこに十字架が浮かんでいる。
(すべてモザイク)
ローマ帝国のテオドシウス帝(注)の娘 (ホノリウス帝は異母兄である) ガッラ・プラチ
ディアの人生は波乱に満ちていたようであるが、自身の遺言で彼女はここに眠
っている。権謀術策渦巻く世界に疲れた彼女は(政治にも関わった)あの世の安寧の
世界を夢見たのだろうか。礼拝堂は彼女が造らせたといわれている。
(注:キリスト教を国教とした。また実質的にローマ帝国の最後の皇帝 優れた統治者
といわれている)
( 尚、巻頭の言葉は初期キリスト教美術、ビザンチン美術 岩波書店より引用)
ラヴェンナ
中世都市ボローニアBologna(伊)を歩く
「イリネウスの時代からボローニアは法律の分野で高い名声をえるようになった。
しかも、その名声は偉大な教師たちを擁し、堅実な方法を行う法学校としての
評判であったが、こうした評判がそこへ遠くから学生をあつめたのであった」
(ハスキンズ)
(ボローニアの中心マッジョーレ広場、中央の建物はパラッツォ・コムナーレ
市庁舎13世紀~)
ヴェネツイア(シリーズでお送りしている)を訪ねた後、ここボローニアに立ち寄りま
した。
(アーケイド街 ボロニアというとやはりアーケイドか)
(やはり中世の面影が)
(大学付近にて 大学の創立は1088年 古い)
中世の大学についてCH・ドーソンは次のように述べています。
「パリ大学が西方キリスト教世界にとって神学と哲学のすぐれた国際的大学と
なったように、ボロニアは最初から、法学研究のすぐれた国際的中心地であった。
しかし、パリ大学が中世をつうじて本質的には聖職者の教育機関であったのに
たいして、ボローニアのほうはむしろ世俗の大学で、この大学で、イタリア諸都市
の政治に大きな役割を演じた法律家や役人たちは教育をうけたのである」
(中世ヨーロッパ文化史より)
ボローニアの大学都市としての名声はこのドーソンの言で十分であろう。
一応、大学のあたりを、私は、その名声にあやかろうと?ウロウロしました。
( 斜塔 向かって右がアジネッリの塔 修理中でなんか痛々しい、左がガリゼ
ンダの塔 )
ボローニアの斜塔といえば、評判はあまり芳しくないようで、かのゲーテも
「イタリア紀行」の中で
「斜塔はいやな眺めであるが、しかし、わざとこういうものを建てたのに相違ない。
私はこの愚かしい企てを次のごとく説明する。この市が物騒であった時代には
、すべての大きな建物が要塞に用いられ、勢力のある家族はそこに塔を築き
上げた。それが名誉や道楽のためとなり、誰も彼も塔を建てて誇りとした」と
まあ、さんざんである。
しかしこんな見方をする人もいる。
「人はこれほど動的な、爆発的な塔をみつけることは困難である。するどくそが
れた塔体には、何の飾りも、文節も見られない、ただ、裸の、やせた、しなやか
な弾性があるだけである。それはまるで、吹く風につれて、右に左に、たやすく
ゆれ動くかのようである」(マグダ・レヴェツ・アレクサンダー「塔の思想」より)
。
ここボローニアはエトルリア時代、ローマ時代、ビザンチン時代と栄えたところ
であり、勿論中世には都市国家(コムーネ)でもあった(ロンバルディア同盟の
一員として、神聖ローマ皇帝と戦った歴史を持っている)。
この遺跡はどの時代のものであろうか。残念ながら、分からない。
ちょっと無残な姿を曝け出していた。
今回は時間の関係でさらっと歩いただけでしたが、やはり内容の濃い中世の
都市でした。もっと時間をとって歩くべきだと後で思いました。次回のチャンスに
期したい。
ボローニア
(尚、巻頭の言葉は「12世紀ルネサンス」 創文社より)
今日のツブヤキ
5月5日で全ての稼動中の原発がゼロになった。
このまま、再稼動して欲しくない。子供たちの将来
のためにも。
ロマネスクのある村、サン・ブノワ・シュル・ロワール (仏)
Saint-Benoit-sur-Loire村(F)
昨年の冬、有名な修道院のある村サン・ブノワ・シュル・ロワールを訪ねました
(二度目)。
(サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院 11世紀)
←詳しくは現在更新中の別館「ロマネスクの世界」左のサイド・バーから訪ねて
頂ければ幸いです。
(村の中心部)
(村の近くを流れるロワール川)
ロワールから教会まで散策しましたが、趣きのある村でした。
川からのサン・ブノワの眺めは印象的でした。
古刹サン・ブノワ(サン・ベネディクトのフランス名)を中心にひらけた村ですが、中世には
修道院付属の学校があり、文化の面でも貢献したのである(尚、以前、掲載した
村の教会、ジェルミニ・デ・プレを建てたのは、このサン・ブノワ修道院の院長、
テオドルフであった。彼は偉大な人物だったらしい)。
この村はやはり中世の面影の残る村であり、パリにも近く中世に関心のある方には
ロワール地方を訪ねたら立ち寄ってみたらいかがでしょう。中世のロマネスクを観て
雰囲気に浸るのもいい経験でしょう。
(民家)
ロワールの近くには、石造りの民家が見られました。中世とは、直接関係
ありませんが、何か一寸住んで見たいような、好みの民家が並んでいました。
サン・ブノワ・シュル・ロワール
追記 今朝のツブヤキ
今朝の某新聞のいわゆる小沢裁判について「灰色無罪」には笑った。
裁判は白か黒だろう。
橋 (ヴェネツイア・シリーズ⑭) (伊)
「この橋ー三つの階段と両側に店の並ぶこの橋は世界でもっとも
美しい橋かもしれない」 (F・ブローデル)
ヴェネツイアの歴史は高台のリアルトから始まった
その中心はやはり橋である、近くに魚の市場が開かれて
ヴェネツイアの台所を賄っていったのである。
(リアルト橋 16世紀建造)
車の無いヴェネツイアでは、運河が道路であり、どこに出かけるにも歩くか
船しか交通手段はない。ここカナル・グランデを大動脈に、小さな運河へと
血管のように繋がり広がっている。
(橋の上には出店がある)
フィレンツエのヴェッキオ橋を思わせる店が並んでいる
(橋の近くには、まるでアラブのバザールを思わせる出店が)
やはり東方貿易の影響か、昔歩いた懐かしいアラブの路地裏の店を思わせる
(近くの野菜市場から運ばれた新鮮な野菜)
そして周辺の運河へと橋が拡がっていったのである
色々な橋を歩くのも楽しい
ドージェ、エンリコ・ダンドロの話 ヴェネツイア・シリーズ⑬
「 第一回十字軍をつくった潜在的な諸力を呼集したのが教皇、ウルバヌス二世
であったとすれば、第四回十字軍の天才的な指導者が、年老いた計りがたい
臨機応変のヴェネツイアの総督ドージェ、エンリコ・ダンドロであったという事実に
は劇的な象徴性がある」 (R・Wサザーン)
( 窓に意匠を凝らしている)
(パラッツオ・ダンドロ 現在はホテル・ダニエル)
往時の名前から、分かるようにダンドロ家の住まいだった。14世紀建造。
ヴェネツイ滞在時にいつもこの前を通ったが、ドゥカーレ宮殿にも近く(一番下
の写真左端に見える)。現在のホテルは近寄り難い豪華なホテルだった、、、。
ド-ジェはビザンツ帝國のヴェネツイア太公領を統治するduxから来たという。
またの名は総督。ドージェ職は1797年まで続いた(約1000年 ながい!)。
ドージェについていろんな人(中世史の権威)がいろんなことをいっている。
「大統領的な存在」 (エネン)
「王にも等しい存在」 (ドーソン)
また、エンリコ・ダンドロについては
「この盲人はネルソンのような才物だった」 (パウア)
そして
「ベニスの商人の権化のような」 (橋口倫介)
手元の本だけでも、エンリコ・ダンドロについてこれだけ言われている。
エンリコは相当な権力者だったことが分かります。
彼は第四回十字軍を率いて、コンスタンチノーブルを陥れ、その時
96歳だったという。その地で亡くなっているが、両眼とも失明に近い不自由な
身だったと言う(注1)。これから分かるように、ドージェ職は終身だったのである。
ドージェは貴族からなる、大議会から選ばれていた。まさに貴族とは一心同体
だったのである。一応選挙で選ばれていて民主的に見えるが、貴族はヴェネ
ツイアでは一握りの人々だったのであり、そういった意味では民主的とは言え
ない。それでも、この職は世襲ではなかったようである。
ダンドロ家はヴェネツイアでは、古い家系の名門だったようである(4人のドージェ
輩出)。その中でもエンリコは異色の存在だったのである。
M・ウエーバーは「ドージェは、荘園領主であり、大商人である」(注2)と述べており
これはその地位を現す表現としては、もっとも相応しい言葉かも知れない。
現在はイタリアのヴェネト州の一都市に過ぎないヴェネツイアの首長もヨーロッパ中世
にあってヴェネツイア共和国のドージェ(総督)として大いに商業にあるいは政治に力
を奮ったのである。そのドージェの中にあって、エンリコ・ダンドロは海外をまたにかけて
(その功罪はともかく)活躍した、スケールの大きい人といえる。
(注1「中世のコンスタンチノープル」(三省堂)
(コンスタンチノーブルからのヴェネツイアへの視点が参考になる)
(注2:「都市の類型学」)
(自分のような中世史の素人には、重たいが読み応えがあります)
(尚、巻頭の言葉は「中世の形成」みすず書房より)
同上(サザーン)の著書であり、以前読んだ「ヨーロッパとイスラム世界」(岩波)
には目が開かされた。
「ヴェネツイア貴族」 ヴェネツイア・シリーズ⑫ (伊)
「ヴェネツイアの国制的、行政的技術は、貴族家族相互間にきわめて厳格
な相互的統制を加えながら、しかも都市貴族の ー 広大な農村および海外
地域に対する ー 家産国家的専制政を実現したという点で有名である」
(マックス・ウエーバー)
(カナル・グランデ大運河 奥にリアルト橋が見える)
ヴェネツイア貴族の多くがこの橋(リアルト)の近くに居を構えた、、、
(豪華な貴族や総督の館が並ぶ)
(グリマーニ館 現在裁判所)
総督グリマーニが住んでいた
(4弁葉飾りなど窓のトレッサリーに凝らした当時の人々の余裕と心意気が感じられる)
これらの華麗で豪華な建物群を見ると往時の貴族の権勢が偲ばれる。
ヴェネツイアでは、貴族は商業にも従事していたのである。イタリアの海洋国家の
貴族たちは押しなべて海外交易で潤った。中世都市の碩学エネンは次のように
述べている「イタリアでは、都市に定住する貴族が商業国を、商業居留地網の姿を
呈する植民帝国を、作り出すことになった」と述べている(ヨーロッパの中世都市)。
ヴェネツイアの貴族に詳しい永井三明氏は貴族の師弟は少年時代の勉学が終わると
、はるかな地域に航海するのが常であった。その地で彼らは商業活動によって自分の
財産をふやし、同時に外国の習慣、法律、言語の専門家となった書いている(注①)
そういった貴族の館で貴族たちは賓客を招いて豪華な部屋で祝宴を催していたのであ
る。
貴族はまた政治にまで関与していた。W・Hマキニールは次のように述べています。
「ヴェネツイア国家の運営に貴族階級がより密接に関与して手に入れたものは、
かなりのものであった(「ヴェネツイア・東西ヨーロッパのかなめ1081-1797」)と。
中世ヴェネツイアで貴族が如何に権勢を誇ったか、カナル・グランデにならぶ建物群
から見えてきます。
(巻頭のマックス・ウエーバーの言葉は「都市の類型学」創文社より。
注①は「ヴェネツイア貴族の世界」・刀水書房より)
ロワールの畔の中世のジェルミニ・デ・プレ村を訪ねる(仏)
「当時、フランク人はキリスト教徒になってからかなりの年月を経ている
のに、農民はキリスト教徒であると同時に、古い信仰や迷信を信じてい
た。サン・ジェルマンの聖なる僧院領においても、土地の人々は古い
呪文を唱えていた」 (アイリーン・パウア)
村の中心に教会がある,まるで中世を地でいったようなGermigny-
des-Pres ジェルミニ・デ・プレ村を2011年春訪ねました。
上記のアイリーン・パウアが述べているようにこの村はサン・ジェルマンの僧院
領からもほど近いところの村であるから状況はこの村も変わらなかったものと思
れる.
(村の目抜き通り)
(プレ・ロマネスク ジェルミニ・デ・プレ・教会)
806年献堂のプレ・ロマネスク
← 詳しくは別館「ロマネスクの世界」へ左のサイド・バーからどうぞ
(村役場)
(民家)
村を散策した後、村の中心にあるホテルに泊まりましたが、夕食時には村の人々
がグループで食事をしていました。寄り合いのようなパーティでした。たまたま一緒
になりましたが、郷土料理、地酒、きっとその日の出来事を話しているのでしょう。
ちょっとした喧騒の中の食事、都会のホテルには無い雰囲気が漂っていました。
ものの本によると、「(中世では)教会は村で唯一つの石造建築であり、それは村人
にとって、日曜の礼拝や四季の宗教的祝祭、冠婚葬祭の挙式の場所だったばかり
でなく、各種集会の公会堂でもあった」とある。この村の教会もきっとそのような場所
だったのであろう。
フランスの村は中世以来、成り立ちはほとんど変わりません(勿論、家などの形
は替わっても)そのへんが、歩くのに魅力的なのかもしれません。
この村の小ぶりの教会といい、静かな佇まいといい、いっぺんに気にいりました。
パリから近いので(下の地図参照。(-)を数回クリックしますと、フランスのどの
あたりかわかります)これからも頻繁に通うことになりそうです。
(注:巻頭の言葉は「中世に生きる人々 アイリーン・パウア著 三好洋子訳 東大出版会)
ジェルミニ・デ・プレ村
サン・マルコと四皇帝像の話( ヴェネツイア・シリーズ⑪)(伊)
「率直に言おう、いま見るサン・マルコ寺院は、異常なまでに、装飾過剰
であり、途方もなく異邦的に思えるのではなかろうか?
(F・ブローデル)
(サン・マルコのドゥカーレ宮殿側 左矢印石柱 右は四皇帝像)
(ローマ四皇帝像・一番左はディオクレティアヌス帝4C)
(植物文様の浮き彫りがほどこされた角柱の一つ)
サン・マルコの壁には、正面には前回お送りした4頭の馬(のレプリカ)像が
あったり、今回の上記の石像はいずれも第四回十字軍が占領したコンスタ-
ンチノーブルから奪って来たものと言われている。
巻頭のブローデルも指摘しているように(聖なる寺院に十字軍が取ってきた物
でまわりの壁を飾っているのが)あまりに装飾過多で,意外な像に戸惑いを覚
えたものである(四皇帝像の一番左のディオクレティアヌスはローマ時代キリ-
スト教徒を弾圧していたのだから)。そして人物像は確かに東方的と言おうか
異邦的である。シ-リアあたりで制作された、、、、。像自体は素朴で面白い。
どうやら上記の謎の答は隣の統領の建物、ドゥカーレにあるのではない
だろうか。つまり当時はこの寺院の持ち主は隣に住んでいた統領など統治者
だったのである(ドゥカーレの礼拝堂)。戦利品で飾っているのは当時のヴェネ-
ツイアの政教一致的な世俗性に理由があるのだろう(ホレこれ勝ち取ったもの
みたいな)。建築は時代の反映なのである。
(注:四皇帝像はローマ時代のディオクレティアヌス帝(在位284~305年イリリア
の出身で一兵卒から身を起こした)の改革、四分治制はローマ帝国の広大な領
土を混乱から建て直し、確実に治めるために帝国を四つにわけて統一したこと
(4世紀末ごろ)を意味している 4世紀ごろエジプトかシリアで製造されたもの
といわれている)
(尚、巻頭の言葉は『都市ヴェネツイア F・ブローデル著岩崎力訳 岩波書店)
ライン川の畔の中世の町ボン(独)
昨年の冬(2011)、久しぶりにボンを訪ねた。前に訪ねたのはドイツの旧首都の
時代だから、かなり昔である。
この町はライン川の畔にありベートーベンの生家や大学のある静かな佇まいには、
大都会と違って何かほっとする。ローマ時代以来の古い町であり、大聖堂catedr
ale Saint-Martin など中世の面影を残す町でもあります。
(ライン川)
(大聖堂 12C)
町の中心にあるロマネスク様式の大聖堂を訪ねました
ただ今別館「ロマネスクの世界」にて詳しく紹介しています。
← 左のサイドバーからお立ち寄り頂ければ幸いです
。 (名門 ボン大学) (ベートーベン生家)
下の方に矢狭らしいのが見えるから中世の市門の名残だろうか。
ボン
追記 泊まった後で。
自分は数回訪ねているので、目新しい気がしませんでしたが、今回は娘家族と
一緒でした。今回は初めてライン川沿いのホテルに泊まりましたが、これは
正解でした。周囲は瀟洒な家が並ぶ住宅街、そして川沿いには、レストランも沢
山あり散策の後夕飯と洒落込みました。ラインを見ながらの食事、最高でした。
町に出てベートーベンの生家を訪ねました。家には彼が使用したピアノなどが
展示。やはりここは何回訪ねても良い。川沿いのホテルに泊まり、町を歩く。こ
こボンはそんな町歩きに最適だと泊まったあと思いました。

















