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カタロニア周遊⑤ビック~バロセロナ(スペイン)


   

  一泊二日の旅、宿はバロセロナ近郊に取った。バロセロナに近く、夜市内で食事を取った。
 
  翌朝、あたりはこんな光景だった工場地帯の趣がある。


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   "カタロニアはスペインの工場"という言葉があるそうですが、

   ここは正にそんなことを思い出させる風景である。
   どこまでも工場がつづいている。一説によると、現在のカタロニアは
   スペインの国内総生産の約20パーセントを占め、最も経済規模の大きい
   自治州だそうである (2013年頃)注①)


   そして面白い光景に出くわした。

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 人が入って行くところについていくと


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 そこはこんな墓地である


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  小さい区切りが個人のお墓である。それぞれの名前がついていました。


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 許可をもらって入った墓地だったが、興味深いところでした。
 そして最後の訪問先バロセロナに向かった。

  (注①参考 カタルーニアを知るための50章 明石書店)




  



  



 



 

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カタロニア周遊④ ビック ロマネスクの面影(スペイン)

                

   ビックの町歩きは大聖堂や美術館の見学で締めくりました。

 大聖堂の横についている鐘楼はロマネスク様式である。
 そのロンパルディアの装飾にロマネスクの面影がちょっぴり残されています。


 本堂の方は後年、残念ながら、現在の姿に変えられた(1781年)。




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 本堂に入ると


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        (大聖堂 ファサード)

                  

 


  中に入ると

  内部は黒を基調としており



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 一風変わった印象を受けました


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                (  セルト作の壁画?



 壁面も比較的新しい時代の作品で飾られていました。



 そして隣の博物館へ

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        マリアのエリザベト訪問だろうか
     



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  最後に大聖堂の近くの博物館を見学。


 ピレネーのどこかのロマネスクの壁面から剥がされて持って来たと思われる

 フレスコ画や木製のキリスト像や聖母を見学。

 
 彩色されたその姿に木の持つ温もりを感じたものでした。


    

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カタロニア周遊③ビック(スペイン)


  ”約1000年のあいだ、その歴史は、隣国の歴史に束縛されたり
  統合されたり同化されたりしてきた。

  国家を持たないため、カタルニアのほかの国家の一部を成さざるを
  得なかったのである。”
             (M・ジンマーマン M=ジンマーマン)(注)



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    中心の広場から横道に入ると、かなり古そうな建物が見えて来ました。


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    入口の天井もアーチ型になっている



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   ”カタルーニアは、ローマ人の征服の中心の一つであった”と巻頭の言葉の著者は
   述べています。


   
 しばらく行くと



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        (ローマ時代の神殿 2世紀)

   ほとんど建築時のまま残っているといわれているが、意外と小振りである。
   旧市街の一角にすっぽりと収まっている(中には、入れなかった)。 



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  カタロニアはギリシャ人が入植して以来、カルタゴ、ローマ人が渡来してきた
  重層の歴史がある。そして西ゴート人、ゲルマン人(フランク人)アラブ人
  と続くわけである。


  (注:カタルーニアの歴史と文化 白水社)


  (この項つづく)

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カタロニア周遊② ビックVicへ


  このような街中のロマネスクや

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         (Igresia de San Pedoro de Abrera)


   


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  この様な荒々しい壁の建設原初の姿を留めている別のロマネスク等を観て
  中世の町、ビックに到着。



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  Vicの広場

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  ビックの広場に面した建物の窓には(10月27日の)独立宣言
  祝うカタロニアの旗が見られた(現在はまだカタロニア州の独立
  宣言は違憲としてスペイン政府は認めていない)。


      カタロニア独立の見通しは立っていない、、、。

   (この項続く)

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カタロニア周遊 ①( スペイン)


 周遊といっても、目的はカタロニアの1地方都市



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 まずは前に訪ねた聖なる山モンセラットでした。同行した娘夫婦は初めて
 ということで立ち寄ることに。

 しかし土曜日ということで、多くの人が車を連ねて訪ねており相当な混雑、
 山の頂にある修道院を見ることは断念降りることに。車の行列を離れました。


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娘が車から目にした村で、何やら人が集まっているというので、立ち寄って食事でもということで
停車。

なにやらお祭りのようです。ここで、屋台で買ったソーセージなどを食し、舌鼓を打ちました。

見物したお祭りはカタロニアの名物の"巨人の行進"?(男女のカップルによる)のようでした。
思わぬ出し物にひと時の見物でした。そのあとロマネスクなどを巡りました。


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 さて、

   今年も11月になり、せわしい季節になりました。

 先々月(10月28日)前から計画していた(パリからの)カタロニア行を決行その日は
 きしくもカタロニア議会の"独立宣言"採択の翌日になってしまいました。

 バロセロナ空港は多少混乱しているのではと心配はしましたが、もう
 決めたことと行くことにしましたが、何事もなかったような空港の
 雰囲気でした。しかし一泊二日の慌ただしい旅行ではありましたが、、。

 空港でレンタカーを借り、運転の苦手な自分に代わり娘婿がパリから同行して
 向かった先はビックVicでした。次回からそこを詳しく。


 


           

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フィレンツェ Firenzeの秋 


                  花の聖母 サンタ・マリア・デル・フイオーレ
                       Santa Maria del Fiore 


 フィレンツェの町は黄金色に染まっていました


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      ルネサンスが花開いた中世の町 フィレンツェの象徴である

            サンタ・マリア・デル・フィオーレ



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       まずドゥオモを訪れました


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ドゥオモ 


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   大円蓋と 最後の審判




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                                                   最上段にキリストが鎮座している

                  のが見える そのしたには、聖母子の姿が

          


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                ヴァザーリによるフレスコ画

    天国と地獄絵図が展開されていました
         (左下には審判者?キリストが)


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        ” 花の聖母”とは裏腹に、厳しい裁きが


    
               

     天国だろうか?   平和な光景が
     しかし、その下では悪魔が待ち受けている


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  地獄?  おぞましい光景が



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     魑魅魍魎の世界が、、、


 最後はこんな姿に
 


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 そして天国

     

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天井画は参拝者への戒めであるとともにメッセージであった  

                ヨーロッパ中世とは、厳しい掟(おきて)の社会であり、
     また、己を律する社会でもあった。

  


     それにしても高くて、広い天井に描いた壁画。

     ため息が出る。  

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フィレンツェを歩いて来ました

                                


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   「君はフィレンツェを見たか?」
   
   Γ いや、見てなかった。あのドゥオーモ( サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の
   影のように それは幻だった  」

  
   長い間、ウフィッツイ美術館やミケランジェロ作のダヴィデ像などごく一部を過去の数回
   
   の訪問で 覗いただけで、見た気になっていたイタリアのフィレンツェ。今回娘夫婦


   (パリ在住)の結婚記念日の招待での数日の滞在でやっと莫大な数の美術品のほんの

 
    一部を見ただけと 思い知らされました。


    (しばらく、 不定期でお送りします)



        

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パリ サント・ジュヌヴィエーヴの山周辺を歩く


    パリに着いて、まずはここを歩きました。


   「パリではローマ時代以前のオッピドウムであるルテティアがあった。セーヌの島が
    狭すぎるようになり、川の両側の対岸にそしてサント・ジュジュヌエーヴの山の
    一番高いところ、今日のパンテオンに至るまでの地域にローマ趣味の高級地域が
    成立したのであった」(エディット・エネン)(注1)


  いつものように、テュイルリ公園をスタート

  10月初めで秋の色が濃い



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    (シテ島が見える)中央の尖塔はサント・シャペル

 今回は右岸から歩いた



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 サンチャゴ巡礼の出発点 サンジャックの塔

 サンジャック巡礼には、サンジャック教会で
 洗礼を受けて出発したという(注1)。

 



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 カペー朝の王宮の跡

 現在は裁判所



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 ここでサンルイ島に渡る


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  (サンルイ島からみるノートルダム教会)

    ここはパリ発祥の地の地である。こんな狭いところだった。


     (注) この地域(シテ島とセーヌ川の橋の左奥)にローマ人が住んでいた。この部分を
  今回主に歩きました。



  進んで左岸へ 


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    (フィリップ・オーギュストの城壁が残る)


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  (同上  フィリップ・オーギュストの城壁)


  

 ここでクロヴィス通りに入る

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  (クロヴィス王の塔)

 (現在はアンリ四世高等学校の敷地)


  

  ヴィエの勝利の後、クロヴィスは崇敬していた聖ジュヌヴィエーヴの

 墓の上に聖なる使徒に捧げるバシリカを建てることを決心した

 という(注2)この塔はその名残という。
 (この近くに彼は葬られているという)


  ある意味、この地は王国の首都としてパリを選んだクロヴィスが眠る地で
  あるのは特筆すべきことであるかも知れません。


  ここを訪れてクロヴィス 主なゆかりの地は大方訪ねたことになる


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    (左はサンテティエンヌ・デュ・モン教会)
  



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        (パンテオン)


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    パリ大学の近くだけに若い人たちの姿が多く見られた



 エネンは又(巻頭の言葉につづいて)次のように述べています。

「サント・ジュジュヌエーヴ山の起伏は円形劇場を建設することを可能にしていた。
 左岸には水が十分にあった


  私には、水の部分が最重要であると思われる。というのもローマ時代の
  水道橋の建設に見られるように、水が彼らにとっては極めて必要不可欠に
  思われるのである。それは現代でも同じである。








 


(注1ヨーロッパの中世都市 岩波書店) 

(注2メロヴィング朝 白水社)

 注3ヨーロッパ古寺巡礼 平凡社)

     

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再びヨーロッパの中世を巡って来ました


   「パリ、ルーアン、ルアーブルは、セーヌ川を大通りとする一つの都市であるという言葉
 がある」(ミシュレ)

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 再び、パリを拠点としてヨーロッパの中世を巡って来ました。
 予定を変更してしばらくお送り致します。







    

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プティット・フランス (ストラスブール)


    「フランスの歴史はフランス語とともに始まる。言語は国民性の主要な特性である。
    我々の言語の最初の記念碑は、843年の{ヴェルダン条約にさいしてシャルル禿頭王
    が兄ルートヴィッヒにあてたストラスブールのの誓文であった」
                               (ミシュレ)(注①)
   

        大聖堂を見学の後、かって 製粉業などを生業(なりわい)としていた家が並ぶ
   プティット・フランス地区を散策しました。ここには、木組の古い家が見られます。

         
              
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     ストラスブールといえば、ローマ時代に遡れる古い町ですが、
     中世でも511年クロヴィス王没時のメロヴィング朝王国領の地図(注②)
    を見るとストラスブールは近くのヴェルダンなどと並んですでに
    司教座のマークがついています。


    上記ミシュレはストラスブールの誓い(誓文)は記念碑といって
    いるほど重要な出来事であるわけは、その文章がそれぞれの言葉
    であるゲルマン語とロマンス語で書かれたということと思われる。
    つまり現在のドイツ語とフランス語の基(もと)である。
    
    これがフランスとドイツの祖型が出来上がったヴェルダン条約が政治的な
    条約とすれば、ストラスブールの誓いは初めてドイツ語とフランス語で
    書かれた言葉という文化的な側面もあると言えるかもしれません
    
    このあと、フランス、ドイツとつづくイタリアの原形をつくったとされる
    メルセン条約が続くわけである。 。
   
    そんなことをおもいながらぶらぶら歩いたことでした。
    そして次に向かったのは同じライン川沿いにあるドイツ側の中世都市
    ケルンでした。
    
    (注① フランス史 藤原書店 注②中世のヨーロッパ朝倉書店)


   

   追記 


   文化というと、ストラスブールはかのグウテンブルクが住んでいた町であり
   また現在では、政治的にはヨーロッパ議会がありますが、残念ながら訪ねる
   ことは出来ませんでした。やはりここストラスブールは中世以来の伝統を引
   き継いている気がします。 

     

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