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ヴェネツイアと十字軍 歴史の証人


         「十字軍とヴェネツイアは、征服後の分け前をあらかじめ決めて、
        陸と海からこの町をせめた。ついに1204年四月13日コンスタンチ
        ノーブルは陥落した」 (井上浩一注1)
 
    ヴェネツイアは海運で培った海軍の力でビザンチンを力ずくでねじ伏せたのであろう。              
 P1036587.JPG       
サン・マルコの正面を飾る4頭の馬。第四回十字軍
の戦利品の複製(ブロンズ製の本物は聖堂内博
物館にある)。
これらの馬の像はコンスタンチノーブルの大競技
場のヒッポドロームを飾っていたという。そこから
運ばれて来たのである。これらの像は歴史の証
人というわけである。


P1026532.JPG




















 
 その陥落の模様を歴史家・橋口倫介氏は著書の中で(注2)次のよ
 うに記している
 「市民は老若男女を問わず虫けらのように殺され、婦人たちは路上
 で陵辱され、皇帝の墓は暴かれて貴重な副葬品が盗み去られた」。
 まるで殺戮のかぎりをつくした最初の十字軍のエルサレム入城を彷
 彿とさせる。
 この十字軍はフランスの諸侯とヴェネツイア人が主役を演じたわけ
 だが、まさに中世の歴史の一断面である。
 (注1 ビザンツ帝国・岩波  注2 中世のコンスタンチノーブル・三省堂)
                       
                                  ヴェネツイア・シリーズ⑩
                (不定期にお送りしています)    


湖のほとりの優美なロマネスク マリア・ラーハ(独)


   PC276248.JPG

   ライン川の畔の古都ヴォルムスから次に訪れたのが湖畔の静かな環境にある
  マリア・ラーハ。今回、一番訪ねたかったドイツ・ロマネスクの代表格といえます。
  名前そのものの、文字通り、優美なロマネスクでした。湖は少し離れているため、
  残念ながら見通せませんでした。

  中世美術の碩学がそろって、この大型のロマネスクはカロリング、オットー朝と
  関連があると述べていますが、私もかねがね主張しているようにロマネスクの
  ような宗教建築といえども、当時(中世の)政治体制や社会と密接な関係性が
  あるといえます。そのあたりは以下でご参照下さい。
  
  詳細につきましては、別館「ロマネスクの世界」に左のサイドバーからお越し頂
   ければ幸いです。
  

 ラインの畔の中世都市 ヴォルムス(独)

  
 私は別館「ロマネスクの世界」のシリーズでドイツ・ ライン川の畔にあるロマネスク巡り
 をお送りしていますが、現在お送りしているシュパイヤーからマリア・ラーハに向かう途
 中ヴォルムスに立ち寄りました。正直言って、次の訪問する予定のマリア・ラーハが気
 になって(距離的にここから、一寸遠い)ここに立ち寄る気はありませんでしたが、運転
 してくれているセヴァスチャンが熱心に大聖堂を観てきたほうがいいよと勧めてくれた。
 まあ、短い時間だったらいいかと大聖堂を観ることにしました。 

 CIMG2707.JPG地 CIMG2708.JPG
        (大聖堂 東側祭室)                  (内部)
                            (やはりロマネスクは暗い)               
 
 結果的にみて、大正解でした。この大聖堂はライン河畔のロマネスクの古刹でした。
 ロマネスクの大家、柳宗玄氏は「ライン川中流を支配するロマネスク大聖堂の一つ
 であり、完成までに2世紀余りを費やしながら、様式の統一性おおおむね保ちえた
 壮麗な大聖堂である」と述べています(注①)。このロマネスクは東西二つの祭室が
 ある、一風変わったロマネスクでした。ゴシック様式の教会堂を見慣れた目には
 やはり薄暗く感じられました。

 さて、この大聖堂のある町は中世には大変は中世都市だったのです。エネンは著書
 の中で(注②)、7,8世紀のフランク王国の行政においてはヴォルムスは属州中ゲル
 マニアのかっての中心地マインツをしのぐ地位を占めていたと述べています。また同著
 の中で、カール大帝治下のアーヘンとヴォルムス、ルートヴィヒ、ドイツ王治下のフラン
 クフルトとレーゲンスブルクはお気に入りの滞在であり、本来の首都ではなくして、
 玉座の主要な滞在地なのである」と述べています。

 また、この地は11世紀後半から12世紀にかけて高位の聖職者の任命権を巡る
 教皇とドイツ皇帝の争い(叙任権闘争)の中、ドイツ皇帝ハインリヒ5世とローマ教
 皇カリクストゥス2世との間に結ばれ,この問題の決着をみたヴォルムスの協約
((1122年)の由緒ある場所でもある。

 またそれ以前の、かの有名な「カノッサの屈辱」でグレゴリウス7世からの破門の
 発端になったヴォルムスの決議(教皇への不服従とその廃位を声明 注③)を
 ハイリッヒ4世が行った場所もここヴォルムスだったのである。時間の都合上、
 歴史的に非常に重要な舞台であった場所をゆっくり見れなかったのは返すがえ
 すも残念ですが、また他日を期したいと思ったことでした。
    (注①はロマネスク芸術 注②はヨーロッパの中世都市 注③今野国雄氏
    の西欧中世の社会と教会)

        ヴォルムス

      

  追記 書き忘れましたが、ヴォルムスは中世にはコミューン運動が行われた所で
      した。中世史家のプラーニッツは
 、    「ライン河中流域の司教都市、マインツ、ヴォルムス、およびシャパイヤー
      においても、コミューン運動は概に11世紀に開始された。それがもっとも
      早くなされたのは、ヴォルムスにおいてであった」と述べています。
 
     
 


ジャンヌ・ダルクと政治


8459520.jpgジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc
1412 仏ドンレミ村に生まれ、神のお告げを聞く。、1429年シノン城にシャルル王太子の許可のもと、その軍を差し出され、オルレアンを英軍から解放。ランスに王太子を迎えて戴冠させた。その後、英軍に捕まり、ルーアンの法廷で異端宣告そして火刑に。1456年再審、無罪となり名誉回復。1920年に聖人に列せられる。
この像はランスの大聖堂の前にある。
(yoku撮影)



  ジャンヌ・ダルクの生誕600年に因んだ話を。
 昨日1月6日はジャンヌ・ダルクの生誕600年だということである。今朝(一月7日放送)の
 NHKの衛星放送で知った。この放送は仏のF2で放送されたものを紹介したものであった。

 普段はこの種の放送はあっさり見過ごすものだが、今回は一寸違った。というのもジャンヌ・ダ
 ルクに因んだ場所をこれまで訪ね、掲載してきたからである。ルーアン、ドンレミ村、そして最近
 ではシノン城など(かって訪問)。そんなこともあって見過ごせなかったわけである。

 さて、今回の放送の何が興味あったかというと、ニュースで報道された、騒ぎの発端はサルゴ
 ジ大統領がドンレミ村を訪ねたということ。つまりジャンヌが生まれた村である神の啓示を聞い
 たとされる聖地である。
 というのも、今年は大統領選挙の年である。当然現職のサルコジも立候補する。サルコジ氏
 経済悪化もあってちょっと苦戦中らしい。その彼が訪ねた場所が国民的英雄の生まれた村と
 なれば、当然注目される。それに丁度生誕600年と来ている。

  野党その他はこの訪問は政治利用ではないかと騒いでいるらしい。
 ご存知のように、ジャンヌはフランスを英軍から解放した国民的英雄である。(サルコジ側に
 してみれば)その英雄の生誕記念日を利用しない手はないということか。

  まあ、「カトリックの国、フランスのあらゆる階層のアイドル」(注)、その政治利用も分からぬ
 ではないが、近々大統領戦があるとなれば、政治利用でなないかと(痛くもない?)腹を探られて
 も致し方ない気がします。以上、私には一寸気になるニュースでした。
 (注: 高山一彦著 ジャンヌ・ダルク 岩波新書)


景観画家とヴェネツイア


    P1016482.JPG
               (ヴェネツイアの一風景 yoku撮影)

  地中海沿岸、島々を仕事や個人で結構歩きました(ほとんどは、ブログをやる前から)。
 本当にこの内海は惹かれるものがあります。
    
地中海―人と町の肖像 (岩波新書)

地中海―人と町の肖像 (岩波新書)

  • 作者: 樺山 紘一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/05/19
  • メディア: 新書
  この本の中でたまたまヴェネツイアが出て来ます。景観という項目の中でですが、
 カナレットという画家が描いたヴェネツイアの一連の絵(サン・マルコの運河波止
 場など)もあります。
 ヴェネツイアの画家といえば、ルネサンス時代のヴェネツイア派の画家を思い出し
 ますが、カナレットはかなり後の時代の人ではありますが、後輩画家にあたる
 わけです。

 カナレットは18世紀の人ですが、私には何か景観を写しとるカメラマンに思え
 ます。恐らく、この時代の人々もカナレットの絵を見て、ヴェネツイアを訪ねたこと
 でしょう。そういった意味では当時の人も現代の人々と何ら変わらないわけです。

 この本のタイトルと著者にひかれて求めたわけですが、単にエッセイにとど
 まらず、私には中世などの歴史本としても読める興味深い本だと思います。 
 
 本年もよろしくお願い致します。
 
     

古都 シュパイヤー(独)を訪ねる

   
   今年の新年(2011)ライン川沿いの古都シャパイヤー訪ねました。古刹シュ
 パイヤー大聖堂の門前町みたいなところですが、文化の香りがするなかなか風情
 のある中世の町でした。

   PC266231.JPG
        (シュパイヤーの目抜き通り 中心の塔はALTPORTEL)

   PC266204.JPG
                     (世界遺産 シュパイヤー大聖堂)
   ← このロマネスクをより詳しくご覧になりたい方は別館ロマネスクの世界
   (ただ今公開中)左サイド・バーからお訪ね頂ければ幸いです。     

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   PC266213.JPG

   
          シュパイヤー
  
      

 


アーヘン Aachen(独)を訪ねる


   昨年の今頃、前から訪ねたいと思っていたアーヘン(独)を訪ねた。
   雪が凄く積もっていたが、今年はどうなんだろう。


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           (大聖堂 真中に宮廷礼拝堂の丸屋根 が見える)
     PC286296.JPG
宮廷礼拝堂の内部
重要な天井(円蓋)は修復中であった。
「新しきカエサル、シャルマーニュ(カール
大帝742-814)はここ(アーヘン)で誕生
し、生活し、埋葬
され、ある重要な大建築が
その記憶を保っている」とある(注①)
この礼拝堂はラヴェンナのサン・ヴィター
に範をとったといわれ,八角堂の形で
ある。
大帝は祈りに度々この礼拝堂(8世紀)を訪
れた

      最初に述べたように、ながい間訪ねたいと思っていたここアーヘン、娘婿が雪の中を
 車で遠路パリから連れて行ってくれた(彼はここからさほど離れていないフランスの出身)。
 ここぞとばかりに欲張ってシュバイヤから始まってあと2,3箇所のロマネスクを訪ねた
 (いずれupの予定)。こちとら、南国出身ときている、雪のドライブが苦手である。彼に
 は大いに感謝している。
 
  さて、アーヘンときたら、カール大帝とカロリング・ルネサンスで有名である。
 「カール大帝は、カール二世とともに優れた芸術愛好家であり、愛書家であった。ラテン
 文化の高さが彼の念頭にあったに違いない。イタリア滞在中にパルマに見出したイギリス
 の博学アルクインをはじめ、後に大帝の伝記者になったエギンハルトなど多くの学識者や
 僧職を彼はアーヘンの宮廷に集めた。

 この大帝の意思と彼らの助力によって、カロリング時代の理想の方向、文芸復興の理想が
 定められるのである。この場合、復興の理想となった古代は古典的な純正な古代ではなく
 キリスト教化された古代、あるいはラヴェンナコンスタンティノーブルであった」(注②)
      PC286288.JPG
          (市庁舎 建物は雪化粧)
 今回の旅は娘の家族も同道していたので、ゆっくり丹念には見学することが出来なかった。
 見たかった礼拝堂天井も修復中であり、いずれ暖かいときにもう一度訪ねたいと思ってい
 ます。尚、この礼拝堂と密接な関係があるサン・ヴィターレはこの後を含め数回訪ねていま
 す(ここもいずれupする予定です)。
 (注①ヨーロッパ中世・デュビィ 藤原書店 注②図説世界文化史体系・角川書店)

      アーヘン
  
   


ヴェネツイアとニューヨーク


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                              (ヴェネツイアの一風景)

 本を読む

 「21世紀の歴史」
 ジャック・アタリ著
 林昌宏訳
 作品社 

PC136815.JPG著者
ジャック・アタリ Jaques Attali
アルジェリア生まれのフランス人
仏国立行政学院(Ena)卒
1981~1990年ミッテラン政権において大統領
特別補佐官を勤める、、、。
政治・経済界で重責を担う一方で、経済学者、思想
家・作家としても幅広く活躍し、まさにフランスを代表
する知性というべき存在となっている。
(本の著者紹介より)

   
 この本を読んでいるうちに、ヴェネツイアについての記述があり興味深く読んだ。というのは、
  前回 ガレー船について書きましたが、この本にたまたまガレー船について書かれていたの
  てそこに目が行ったのです。
 (14世紀か15世紀ごろと思いますが、)ガレー船を漕ぐ5万人の水夫と出ていたからです。
  そのころのヴェネアツイアの人口は1338年に9万と中世史家エネンは書いていますから、
  半分以上が水夫だったわけです。ヴェネツイアの繁栄にガレー船の水夫が大いに寄与して
 いたことになります。

 今回この本に注目したのは、次の記事です。
 「洗練された株式市場、商社、商業銀行、保険会社のエージェントとなったのはヴェネツイア
 であった。また、大勢の小口預金者により財源を確保するすなわち株式会社によって船をチ
 ャーターする事業を始めたのもヴェネツイアである」という話である。この時代の株式の記述には
 驚かされる。
 この本を読んで感じたのは中世のヴェネツイアと現在のニューヨークとの類似性である。
 
 勿論、河や海に囲まれた環境も似てますが、金融の本場ニューヨークは格差デモに象徴する
 ように、苦境に立たされています。
 著者は中世のヴェネツイアについて次のようにも書いています。「ガレー船や軍隊のカルテル
 は、通商路の安全を確保するための十分な規模や軍備にも欠如し、社会組織全体が高コス
 トに苦しんだのである。
 
 さらに、ドイツの高山から採掘された貴金属は、さらに希少になり高値となった。ところが、トル
 コからの圧力で息が詰まりそうになったヴェネツイアでは、10万人の人々があまりにも裕福と
 なり、豪奢な生活を 送っていたためについに
感覚が鈍り始めてしまった、、、、」

 まさに、現代のニューヨークは中世のヴェネツイアを彷彿とさせる。この本の著者は現在のヨー
 ロッパ(特にフランスの)の債務危機格付けの下落をを予言しているような箇所もある。そうい
 った意味で示唆に富む本であり 一読の価値があると思います。
  (尚、断っておきますが、NYにつきましては私(yoku)の見解です)
                      
     ヴェネツイア・シリーズ⑨ (このシリーズは不定期にお送りしています)

  
  


ヴェネツイアと船の話


   「ヴェネツイアは、かこい込まれた潟(ラングーン)という文字通り川と外海
    の中間に位置しているために、このような実験を行なうには理想的な場
    所にあった。緊急に際には、河川交通用の船が静かな潟(ラングーン)
    の水をはなれて、広いアドリア海へとあえて出て行くこともしばしばあっ
    たに違いない」(W・H・マクニール)


   P1026539.JPG
        (今は観光用のゴンドラが長閑(のどか)に浮かぶラ・グランデ)
         中世には東方に向かう多くの商船で賑わっていたことだろう、、、、
          
          
 シリーズとしてお送りしているヴェネツイア(昨年年末から新年にかけて訪問)で、
 今回は交易国家として栄えたヴェネツイアの船の話は外すことが出来ません。

 さて、その船の話であるが、レヴァント貿易に当たっていたヴェネツイアは
 中世に香料、染料、絹織物、穀物、塩などの商品を輸送していた。軽くて
 高価な香料は特にガレー船で輸送していたという(私事ですが、このあた
 り(レヴァント沖)で昔,船に乗ったことがあるが、航行は大変だったことだ
 ろう特に 冬場は)。

 というのもガレー船は最大級のガレー船でも200トン、乗組員が200人と
 多数の漕ぎ手を必要としていたため、積載量が少なく、輸送コストが掛かる
 為、香料を特に運んでいたのである。それでも、(軍用船として開発された
 ので)速度や操縦性に優れていた。
    PC106810.JPG
        ガレー船(注)
    
  この挿絵の沢山のオール(櫂)から分かるようにガレー船は多くの漕ぎ手
  を必要としていた
 
 巻頭のマクニールは「平時や戦時における経験が、当然のこととして外海を
 航行し得るような頑丈な肋骨と板の構造を作り出すのに必要な技術的発展
 を刺激した、、
、」と述べていることからもヴェネツイア人が(東方との交易で)
 ガレー船の開発に長けていったことが分かる。

 
 参考:(中世ヨーロッパ 有斐閣新書より挿絵とも) 
    (ヴェネツイア 東西ヨーロッパのかなめ、W・Hマクニール岩波)

          ヴェネツイア・シリーズ⑧ (不定期にお送りしています)

  

 

 

 


番外編 巡礼の話 (先住民族インデイオとヨーロッパ中世)

  

          P8144492.JPG          
      (ヨーロッパ中世のコンポステラへの巡礼 筆者撮影 )
              づだ袋のホタテ貝に注目。ホタテ貝はコンポステラへの象徴でもある
             ヨーロッパの中世は巡礼の時代でもあった、、、
                        
  NHKの衛星の番組でヨーロッパの中世の巡礼を彷彿とさせる興味深い
  ドキュメンタリを観た。

  南米ペルーのアンデス山脈の麓に住むインディオの(末裔)ケロ族の民の
  聖地への巡礼に同行する番組であったが、何が興味深かったかというとこ
  のケロ族のキリスト教との関わり方だ。

 この辺りにはスペインから500年前にキリスト教がもたされたいうことだが、、
 今だに土着の宗教と混交しているのだ。巡礼に出発する前のシーンが印象的
 だった。彼らは巡礼に当たって、大事な家畜アルパカの血を山の神に生贄とし
 て捧げるわけだが未だに彼らの土着の宗教が息づいているのだ。

 ヨーロッパの中世にあっても(中世の中ごろ)、まだ完全にキリスト教が根付
 かずヨーロッパの田舎では、土着の宗教と共存していたと思われるのだが、
 そんな姿が今の南米で見られるのに思わず牽き付けられたのだ。

 この巡礼も過酷なものであった。聖地までの行路は大変な難渋であった。3,40K
 しかも、高度5000メートル近くには氷河があるのだ。勿論、ヨーロッパの中世の
 巡礼の困難さとは、正確を異(こと)にする。ヨーロッパの方は、途中での強盗などに
 会いながら、ローマやコンポステラへ向かうという危険な行路であったが、アンデスの
 方は肉体的な苦労である。 しかし、巡礼が大変な行動であることに変わりは無い。
 番組は途中で見たので、内容を完全に把握したわけではないが、 番組の趣旨は
 亡き妻と南米で出会い結婚したカメラマンが、亡き妻を想いながらこの巡礼に同行
 取材したもののようでしたが、私にはこのアンデスの民のキリスト教と古くからの
 宗教についてのからみが,ヨーロッパ中世とイメージが重なって興味深く考えさせ
 る秀作であると思った。 
               (注: 写真と内容を一部差し替えました) 
  


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