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<title>ヨーロッパ中世ブラブラ歩記</title>
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<description>時間に任せて、ヨーロッパ中世にタイムスリップ｡ブラブラ気ままに歩く。すると気分はもう立派な中世人。</description>
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<dc:date>2012-05-15T05:53:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15">
<title>モザイクの世界　ラヴェンナを歩く①ガッラ・プラチディア霊廟　（伊）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15</link>
<description>　　　　「ガッラ・プラキデイアの波乱に満ちた生涯は、できすぎた歴史小説の粗筋を読んで　　いるようなものである。貴族の恋愛、陰謀、流血の複雑な物語には、当時の名だた　　る大都市や主な軍勢が一通り登場する」　（ジョン・ラウデン）　　　　　　　　　　　（４３０～５０年頃  ギリシャ十字形礼拝堂）　　　　　ボローニアの後、ラヴェンナを訪れた。二度目である。　　　　　今回は、前と違って訪ねる場所を絞りました。　　　　　サン・ヴィターレと今回お送りするガッラ・プラチディア霊廟　　　　　である。　　　　　　　　　　　　　　                    （簡易デジカメにてyoku撮影）　　　中はまるで洞窟のようであるが、しかしその天井は神秘性に満ちていました。　　　ドームの天井はまるで中世のプラネタリウム。そこに十字架が浮かんでいる。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（すべてモザイク）　　　　　ローマ帝国のテオドシウス帝(注）の娘　（ホノリウス帝は異母兄である）　ガッラ･プラチ　　　ディアの人生は波乱に満ちていたようであるが、自身の遺言で彼女はここに眠　　　っている。権謀術策渦巻く世界に疲れた彼女は(政治にも関わった）あの世の安寧の　　　世界を夢見たのだろうか。礼拝堂は彼女が造らせたといわれている。　　　（注：キリスト教を国教とした。また実質的にローマ帝国の最後の皇帝　優れた統治者　　　　といわれている）　　　　　　　　（　尚、巻頭の言葉は初期キリスト教美術、ビザンチン美術　岩波書店より引用）　　　　　　　　　　　　　　　ラヴェンナ　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
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<p>　　<br />　　「ガッラ・プラキデイアの波乱に満ちた生涯は、できすぎた歴史小説の粗筋を読んで<br />　　いるようなものである。貴族の恋愛、陰謀、流血の複雑な物語には、当時の名だた<br />　　る大都市や主な軍勢が一通り登場する」　（ジョン・ラウデン）<br />　<br /><br /><br /><img src="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1046638.JPG" border="0" alt="P1046638.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　（４３０～５０年頃  ギリシャ十字形礼拝堂）<br /><br />　　　　　ボローニアの後、ラヴェンナを訪れた。二度目である。<br />　　　　　今回は、前と違って訪ねる場所を絞りました。<br />　　　　　サン・ヴィターレと今回お送りするガッラ・プラチディア霊廟<br />　　　　　である。<br /><br />　　<br />　　<br />　　<iframe width="420" frameBorder="0" src="http://www.youtube.com/embed/a-59tW0qiio" height="315"></iframe><br />　　　　　　　　                    （簡易デジカメにてyoku撮影）<br /><br />　　　中はまるで洞窟のようであるが、しかしその天井は神秘性に満ちていました。<br />　　　ドームの天井はまるで中世のプラネタリウム。そこに十字架が浮かんでいる。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（すべてモザイク）</p><p>　　　　　ローマ帝国の<u>テオドシウス帝</u>(注）の娘　（<u>ホノリウス帝</u>は異母兄である）　<strong>ガッラ･プラチ<br /></strong>　　　<strong>ディア</strong>の人生は波乱に満ちていたようであるが、自身の遺言で彼女はここに眠<br />　　　っている。権謀術策渦巻く世界に疲れた彼女は(政治にも関わった）あの世の安寧の<br />　　　世界を夢見たのだろうか。礼拝堂は彼女が造らせたといわれている。<br />　　　（注：キリスト教を国教とした。また実質的にローマ帝国の最後の皇帝　優れた統治者<br />　　　　といわれている）</p><p>　　　　　　　<br />　（　尚、巻頭の言葉は初期キリスト教美術、ビザンチン美術　岩波書店より引用）<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　ラヴェンナ<br />　　　　　　　　　　　<br />　　　　　　　　　　<!-- map --><iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=44.4157304&amp;lng=12.1965888&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe></p><!--/ map --><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08">
<title>中世都市ボローニアBologna（伊）を歩く　</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08</link>
<description>     「イリネウスの時代からボローニアは法律の分野で高い名声をえるようになった。　　　しかも、その名声は偉大な教師たちを擁し、堅実な方法を行う法学校としての　　　評判であったが、こうした評判がそこへ遠くから学生をあつめたのであった」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ハスキンズ）          　　　（ボローニアの中心マッジョーレ広場、中央の建物はパラッツォ・コムナーレ　　　　市庁舎１３世紀～）　　　ヴェネツイア（シリーズでお送りしている）を訪ねた後、ここボローニアに立ち寄りま　　　した。　　　                  　　　　　　　（アーケイド街　　ボロニアというとやはりアーケイドか）      　　　　　　　　　　　　　　　　（やはり中世の面影が）      　　　　　　　　　　　（大学付近にて　大学の創立は１０８８年　古い）　　　中世の大学についてＣＨ・ドーソンは次のように述べています。　　「パリ大学が西方キリスト教世界にとって神学と哲学のすぐれた国際的大学と　　なったように、ボロニアは最初から、法学研究のすぐれた国際的中心地であった。　　しかし、パリ大学が中世をつうじて本質的には聖職者の教育機関であったのに　　たいして、ボローニアのほうはむしろ世俗の大学で、この大学で、イタリア諸都市　　の政治に大きな役割を演じた法律家や役人たちは教育をうけたのである」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（中世ヨーロッパ文化史より）　　ボローニアの大学都市としての名声はこのドーソンの言で十分であろう。　　一応、大学のあたりを、私は、その名声にあやかろうと？ウロウロしました。                        　　　（　斜塔　向かって右がアジネッリの塔 修理中でなんか痛々しい、左がガリゼ　　　ンダの塔　）　　　ボローニアの斜塔といえば、評判はあまり芳しくないようで、かのゲーテも　　「イタリア紀行」の中で　　「斜塔はいやな眺めであるが、しかし、わざとこういうものを建てたのに相違ない。　　私はこの愚かしい企てを次のごとく説明する。この市が物騒であった時代には　　、すべての大きな建物が要塞に用いられ、勢力のある家族はそこに塔を築き　　上げた。それが名誉や道楽のためとなり、誰も彼も塔を建てて誇りとした」と　　まあ、さんざんである。　　　　　しかしこ..</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-05-08T04:42:22+09:00</dc:date>
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<p><br />     「イリネウスの時代からボローニアは法律の分野で高い名声をえるようになった。<br />　　　しかも、その名声は偉大な教師たちを擁し、堅実な方法を行う法学校としての<br />　　　評判であったが、こうした評判がそこへ遠くから学生をあつめたのであった」<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ハスキンズ）<br />     <br />     <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056674.JPG" border="0" alt="P1056674.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　（ボローニアの中心マッジョーレ広場、中央の建物はパラッツォ・コムナーレ　<br />　　　市庁舎１３世紀～）<br /><br />　　　ヴェネツイア（シリーズでお送りしている）を訪ねた後、ここボローニアに立ち寄りま<br />　　　した。<br />　　　<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056692.JPG" border="0" alt="P1056692.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056694.JPG" border="0" alt="P1056694.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056695.JPG" border="0" alt="P1056695.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　（アーケイド街　　ボロニアというとやはりアーケイドか）<br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056680.JPG" border="0" alt="P1056680.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　（やはり中世の面影が）<br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056683-efdba.JPG" border="0" alt="P1056683.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　（大学付近にて　大学の創立は１０８８年　古い）<br /><br />　　　中世の大学についてＣＨ・ドーソンは次のように述べています。<br />　　「パリ大学が西方キリスト教世界にとって神学と哲学のすぐれた国際的大学と<br />　　なったように、ボロニアは最初から、<u>法学研究のすぐれた国際的中心地</u>であった。<br />　　しかし、パリ大学が中世をつうじて本質的には聖職者の教育機関であったのに<br />　　たいして、ボローニアのほうはむしろ世俗の大学で、この大学で、<u>イタリア諸都市<br />　　の政治に大きな役割を演じた法律家や役人たちは教育をうけた</u>のである」<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（中世ヨーロッパ文化史より）<br />　　ボローニアの大学都市としての名声はこのドーソンの言で十分であろう。<br />　　一応、大学のあたりを、私は、その名声にあやかろうと？ウロウロしました。<br /><br />                   <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056664.JPG" border="0" alt="P1056664.JPG" width="384" height="512" /><br /><br />     <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056667.JPG" border="0" alt="P1056667.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　（　斜塔　向かって右がアジネッリの塔 修理中でなんか痛々しい、左がガリゼ<br />　　　ンダの塔　）<br />　　　ボローニアの斜塔といえば、評判はあまり芳しくないようで、かのゲーテも<br />　　「イタリア紀行」の中で<br />　　「斜塔はいやな眺めであるが、しかし、わざとこういうものを建てたのに相違ない。<br />　　私はこの愚かしい企てを次のごとく説明する。この市が物騒であった時代には<br />　　、すべての大きな建物が要塞に用いられ、勢力のある家族はそこに塔を築き<br />　　上げた。それが名誉や道楽のためとなり、誰も彼も塔を建てて誇りとした」と<br />　　まあ、さんざんである。<br />　　<br />　　　しかしこんな見方をする人もいる。<br />　　「人はこれほど動的な、爆発的な塔をみつけることは困難である。するどくそが <br />　　　れた塔体には、何の飾りも、文節も見られない、ただ、裸の、やせた、しなやか<br />　　　な弾性があるだけである。それはまるで、吹く風につれて、右に左に、たやすく<br />　　　ゆれ動くかのようである」（マグダ・レヴェツ・アレクサンダー「塔の思想」より）<br />。<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056696.JPG" border="0" alt="P1056696.JPG" width="512" height="384" /> <br />　　　　ここボローニアはエトルリア時代、ローマ時代、ビザンチン時代と栄えたところ<br />　　　　であり、勿論中世には都市国家（コムーネ）でもあった（ロンバルディア同盟の<br />　　　　一員として、神聖ローマ皇帝と戦った歴史を持っている）。<br />　　　　この遺跡はどの時代のものであろうか。残念ながら、分からない。<br />　　　　ちょっと無残な姿を曝け出していた。  <br /><br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1056677.JPG" border="0" alt="P1056677.JPG" width="512" height="384" />    <br /><br />　　今回は時間の関係でさらっと歩いただけでしたが、やはり内容の濃い中世の<br />　都市でした。もっと時間をとって歩くべきだと後で思いました。次回のチャンスに<br />　期したい。<br /><br />　　　　　　　ボローニア<br /><br />　　　　<iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=44.4941903&amp;lng=11.3465185&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe></p><!--/ map --><p>         （尚、巻頭の言葉は「１２世紀ルネサンス」　創文社より）</p><p>   今日のツブヤキ<br />　5月5日で全ての稼動中の原発がゼロになった。<br />　このまま、再稼動して欲しくない。子供たちの将来<br />　のためにも。</p><p>&#160;</p><p>&#160;</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29">
<title>ロマネスクのある村、サン・ブノワ・シュル・ロワール　（仏）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29</link>
<description> 　　　Saint-Benoit-sur-Loire村（F)　　　　　昨年の冬、有名な修道院のある村サン・ブノワ・シュル･ロワールを訪ねました　　（二度目）。　　　　　　　　　　　（サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院　１１世紀）　　　←詳しくは現在更新中の別館「ロマネスクの世界」左のサイド･バーから訪ねて　　頂ければ幸いです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(村の中心部）　　　　　　             　　　　　　 (村の近くを流れるロワール川）　　　　　ロワールから教会まで散策しましたが、趣きのある村でした。　　　　川からのサン･ブノワの眺めは印象的でした。     　    　　　古刹サン・ブノワ（サン・ベネディクトのフランス名）を中心にひらけた村ですが、中世には　　修道院付属の学校があり、文化の面でも貢献したのである（尚、以前、掲載した　　村の教会、ジェルミニ・デ･プレを建てたのは、このサン・ブノワ修道院の院長、　　テオドルフであった。彼は偉大な人物だったらしい）。　　この村はやはり中世の面影の残る村であり、パリにも近く中世に関心のある方には　ロワール地方を訪ねたら立ち寄ってみたらいかがでしょう。中世のロマネスクを観て　雰囲気に浸るのもいい経験でしょう。                              　　　　　　　　(民家）　　　　ロワールの近くには、石造りの民家が見られました。中世とは、直接関係　　　ありませんが、何か一寸住んで見たいような、好みの民家が並んでいました。　　　　　　　　　　　　サン・ブノワ・シュル・ロワール　　　　　　　　　　　　   追記　今朝のツブヤキ　今朝の某新聞のいわゆる小沢裁判について「灰色無罪」には笑った。　裁判は白か黒だろう。</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-04-29T06:13:36+09:00</dc:date>
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<p> 　　　Saint-Benoit-sur-Loire村（F)<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126776.JPG" border="0" alt="P1126776.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　昨年の冬、有名な修道院のある村サン・ブノワ・シュル･ロワールを訪ねました<br />　　（二度目）。<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126770.JPG" border="0" alt="P1126770.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　（サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院　１１世紀）<br />　　　<strong>←</strong>詳しくは現在更新中の別館<strong><font color="#ff0000">「ロマネスクの世界</font></strong>」左のサイド･バーから訪ねて<br />　　頂ければ幸いです。　　　　　　　<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1116757.JPG" border="0" alt="P1116757.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(村の中心部）<br /><br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1116761.JPG" border="0" alt="P1116761.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1116756.JPG" border="0" alt="P1116756.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />     <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1116722.JPG" border="0" alt="P1116722.JPG" width="512" height="384" /><br />        　　　　　　 (村の近くを流れるロワール川）<br />　　　　　ロワールから教会まで散策しましたが、趣きのある村でした。<br />　　　　川からのサン･ブノワの眺めは印象的でした。<br />     　    <br />　　　古刹サン・ブノワ（<u>サン・ベネディクトのフランス名</u>）を中心にひらけた村ですが、中世には<br />　　<u>修道院付属の学校</u>があり、文化の面でも貢献したのである（尚、以前、掲載した<br />　　村の教会、ジェルミニ・デ･プレを建てたのは、このサン・ブノワ修道院の院長、<br />　　<u>テオドルフ</u>であった。彼は偉大な人物だったらしい）。<br /><br />　　この村はやはり中世の面影の残る村であり、パリにも近く中世に関心のある方には<br />　ロワール地方を訪ねたら立ち寄ってみたらいかがでしょう。中世のロマネスクを観て<br />　雰囲気に浸るのもいい経験でしょう。<br /><br />  <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126782.JPG" border="0" alt="P1126782.JPG" width="256" height="192" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126781.JPG" border="0" alt="P1126781.JPG" width="256" height="192" /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126783.JPG" border="0" alt="P1126783.JPG" width="512" height="384" /><br />                     　　　　　　　　(民家）<br />　　　　ロワールの近くには、石造りの民家が見られました。中世とは、直接関係<br />　　　ありませんが、何か一寸住んで見たいような、好みの民家が並んでいました。<br /><br />　　　　　　　　　　　　サン・ブノワ・シュル・ロワール<br /><br />　　　　　　　　　　　<iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=47.810331&amp;lng=2.319231&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe><!--/ map -->　<br /><br />   追記　今朝のツブヤキ<br />　今朝の某新聞のいわゆる小沢裁判について「灰色無罪」には笑った。<br />　裁判は白か黒だろう。</p><a name="more"></a>
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</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-21">
<title>　橋　（ヴェネツイア･シリーズ⑭）　（伊）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-21</link>
<description>　　　　　　「この橋ー三つの階段と両側に店の並ぶこの橋は世界でもっとも　　　　　　美しい橋かもしれない」　（Ｆ・ブローデル）　　　　　　　ヴェネツイアの歴史は高台のリアルトから始まった　　　　　　その中心はやはり橋である、近くに魚の市場が開かれて　　　　　　ヴェネツイアの台所を賄っていったのである。　　　　　　      　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（リアルト橋　１６世紀建造）        車の無いヴェネツイアでは、運河が道路であり、どこに出かけるにも歩くか　　　　船しか交通手段はない。ここカナル・グランデを大動脈に、小さな運河へと　　　　血管のように繋がり広がっている。      　　　　　　　　　　　　　　　（橋の上には出店がある）　　　　　　　　　　フィレンツエのヴェッキオ橋を思わせる店が並んでいる      　　　　　　　　（橋の近くには、まるでアラブのバザールを思わせる出店が）　　　　やはり東方貿易の影響か、昔歩いた懐かしいアラブの路地裏の店を思わせる                  (近くの野菜市場から運ばれた新鮮な野菜）　　　そして周辺の運河へと橋が拡がっていったのである　　　色々な橋を歩くのも楽しい　　　                     　　 　　</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-04-21T06:28:01+09:00</dc:date>
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<br />　　　　　　「この橋ー三つの階段と両側に店の並ぶこの橋は世界でもっとも<br />　　　　　　美しい橋かもしれない」　（Ｆ・ブローデル）　<br /><br />　　　　　　ヴェネツイアの歴史は高台のリアルトから始まった<br />　　　　　　その中心はやはり橋である、近くに魚の市場が開かれて<br />　　　　　　ヴェネツイアの台所を賄っていったのである。<br />　　　　　　<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC316373.JPG" border="0" alt="PC316373.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（リアルト橋　１６世紀建造）<br />        車の無いヴェネツイアでは、運河が道路であり、どこに出かけるにも歩くか<br />　　　　船しか交通手段はない。ここカナル・グランデを大動脈に、小さな運河へと<br />　　　　血管のように繋がり広がっている。<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016464-b4975.JPG" border="0" alt="P1016464.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（橋の上には出店がある）<br />　　　　　　　　　　フィレンツエのヴェッキオ橋を思わせる店が並んでいる<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016507.JPG" border="0" alt="P1016507.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　（橋の近くには、まるでアラブのバザールを思わせる出店が）<br />　　　　やはり東方貿易の影響か、昔歩いた懐かしいアラブの路地裏の店を思わせる<br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC316375.JPG" border="0" alt="PC316375.JPG" width="512" height="384" /><br />            (近くの野菜市場から運ばれた新鮮な野菜）<br /><br /><br />　　　そして周辺の運河へと橋が拡がっていったのである<br />　　　色々な橋を歩くのも楽しい<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016447.JPG" border="0" alt="P1016447.JPG" width="384" height="512" /><br /><br />   <br /><br />   <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016470.JPG" border="0" alt="P1016470.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />   <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016466.JPG" border="0" alt="P1016466.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />   <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016453.JPG" border="0" alt="P1016453.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />   <br /><br />   <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016452.JPG" border="0" alt="P1016452.JPG" width="512" height="384" />   <br /><br />　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC316369.JPG" border="0" alt="PC316369.JPG" width="512" height="384" /> <br /><br />　　<a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07">
<title>　ドージェ、エンリコ・ダンドロの話　ヴェネツイア・シリーズ⑬</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07</link>
<description>　　　　「　第一回十字軍をつくった潜在的な諸力を呼集したのが教皇、ウルバヌス二世　　　　　であったとすれば、第四回十字軍の天才的な指導者が、年老いた計りがたい　　　　　臨機応変のヴェネツイアの総督ドージェ、エンリコ・ダンドロであったという事実に　　　　　は劇的な象徴性がある」　（R・Ｗサザーン）　　　　　　　　　　                     　　　　　　　　　　　（　窓に意匠を凝らしている）　　　　　　　　　　（パラッツオ・ダンドロ　現在はホテル・ダニエル）　　　　往時の名前から、分かるようにダンドロ家の住まいだった。１４世紀建造。　　　　　ヴェネツイ滞在時にいつもこの前を通ったが、ドゥカーレ宮殿にも近く(一番下　　　　の写真左端に見える）。現在のホテルは近寄り難い豪華なホテルだった、、、。　　　ド－ジェはビザンツ帝國のヴェネツイア太公領を統治するduxから来たという。　　　またの名は総督。ドージェ職は１７９７年まで続いた（約1000年　ながい！）。　　　ドージェについていろんな人(中世史の権威）がいろんなことをいっている。　　　「大統領的な存在」　（エネン）　　　「王にも等しい存在」　（ドーソン）　　　      また、エンリコ･ダンドロについては      「この盲人はネルソンのような才物だった」　（パウア）　　　そして　　　　　　「ベニスの商人の権化のような」　（橋口倫介）　　手元の本だけでも、エンリコ･ダンドロについてこれだけ言われている。　　エンリコは相当な権力者だったことが分かります。　　彼は第四回十字軍を率いて、コンスタンチノーブルを陥れ、その時　　９６歳だったという。その地で亡くなっているが、両眼とも失明に近い不自由な　　身だったと言う（注1）。これから分かるように、ドージェ職は終身だったのである。　　ドージェは貴族からなる、大議会から選ばれていた。まさに貴族とは一心同体　　だったのである。一応選挙で選ばれていて民主的に見えるが、貴族はヴェネ　　ツイアでは一握りの人々だったのであり、そういった意味では民主的とは言え　　ない。それでも、この職は世襲ではなかったようである。　　ダンドロ家はヴェネツイアでは、古い家系の名門だったようである(４人のドージェ　　輩出）。その中でもエンリコは異色の存在だったのである。　　　　　M・ウエーバーは「ドージェは、荘園領主であり、大商人である」（注2）と..</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-04-07T04:52:36+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　　　「　第一回十字軍をつくった潜在的な諸力を呼集したのが教皇、ウルバヌス二世<br />　　　　　であったとすれば、第四回十字軍の天才的な指導者が、年老いた計りがたい<br />　　　　　臨機応変のヴェネツイアの総督ドージェ、<u><strong>エンリコ・ダンドロ</strong></u>であったという事実に<br />　　　　　は劇的な象徴性がある」　（R・Ｗサザーン）<br /><br /><br />　　　　　<br /><br />　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016425.JPG" border="0" alt="P1016425.JPG" width="256" height="192" />　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016426.JPG" border="0" alt="P1016426.JPG" width="256" height="192" /><br />                     <font size="2">　　　　　　　　　　　（　窓に意匠を凝らしている）</font><br /><br />　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016424.JPG" border="0" alt="P1016424.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　（パラッツオ・ダンドロ　現在はホテル・ダニエル）<br />　　　　往時の名前から、分かるようにダンドロ家の住まいだった。１４世紀建造。　<br />　　　　ヴェネツイ滞在時にいつもこの前を通ったが、ドゥカーレ宮殿にも近く(一番下<br />　　　　の写真左端に見える）。現在のホテルは近寄り難い豪華なホテルだった、、、。<br /><br />　　　<u>ド－ジェ</u>はビザンツ帝國のヴェネツイア太公領を統治する<u>dux</u>から来たという。<br />　　　またの名は総督。ドージェ職は１７９７年まで続いた（約1000年　ながい！）。<br /><br />　　　ドージェについていろんな人(中世史の権威）がいろんなことをいっている。<br />　　　「大統領的な存在」　（エネン）<br /><br />　　　「王にも等しい存在」　（ドーソン）<br />　　　<br />      また、エンリコ･ダンドロについては<br />      「この盲人はネルソンのような才物だった」　（パウア）<br />　　　そして<br />　　　<br />　　　「ベニスの商人の権化のような」　（橋口倫介）<br /><br />　　手元の本だけでも、エンリコ･ダンドロについてこれだけ言われている。<br />　　エンリコは相当な権力者だったことが分かります。<br />　　彼は第四回十字軍を率いて、コンスタンチノーブルを陥れ、その時<br />　　９６歳だったという。その地で亡くなっているが、両眼とも失明に近い不自由な<br />　　身だったと言う（注1）。これから分かるように、ドージェ職は<u>終身</u>だったのである。<br /><br />　　ドージェは貴族からなる、大議会から選ばれていた。まさに貴族とは一心同体<br />　　だったのである。一応選挙で選ばれていて民主的に見えるが、貴族はヴェネ<br />　　ツイアでは一握りの人々だったのであり、そういった意味では民主的とは言え<br />　　ない。それでも、この職は世襲ではなかったようである。<br /><br />　　ダンドロ家はヴェネツイアでは、古い家系の名門だったようである(４人のドージェ<br />　　輩出）。その中でもエンリコは異色の存在だったのである。<br />　　　<br />　　M・ウエーバーは「<u><strong>ドージェは、荘園領主であり、大商人である</strong></u>」（注2）と述べており　<br />　　これはその地位を現す表現としては、もっとも相応しい言葉かも知れない。<br />    現在はイタリアのヴェネト州の一都市に過ぎないヴェネツイアの首長もヨーロッパ中世<br />　　にあってヴェネツイア共和国のドージェ（総督）として大いに商業にあるいは政治に力<br />　　を奮ったのである。そのドージェの中にあって、エンリコ・ダンドロは海外をまたにかけて<br />　　　(その功罪はともかく）活躍した、スケールの大きい人といえる。</p><p>　　（注1「中世のコンスタンチノープル」(三省堂）<br />　　　　（コンスタンチノーブルからの<u>ヴェネツイアへの視点</u>が参考になる）　　　<br />　　（注2：「都市の類型学」）<br />         (自分のような中世史の素人には、重たいが読み応えがあります）<br />　　　　（尚、巻頭の言葉は「中世の形成」みすず書房より）<br />　　　　　同上(サザーン）の著書であり、以前読んだ「ヨーロッパとイスラム世界」(岩波）<br />　　　　　には目が開かされた。</p><p>&#160;</p><p>　　　<br /><br /> </p><p><br /><br />　　<br /><br />　　<br /><br />　　　</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-28">
<title>「ヴェネツイア貴族」　ヴェネツイア・シリーズ⑫　（伊）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-28</link>
<description>　　　「ヴェネツイアの国制的、行政的技術は、貴族家族相互間にきわめて厳格　　　な相互的統制を加えながら、しかも都市貴族の ー 広大な農村および海外　　　地域に対する ー 家産国家的専制政を実現したという点で有名である」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（マックス・ウエーバー）　　　      　　　　　　　　（カナル･ｸﾞﾗﾝﾃﾞ大運河　奥にリアルト橋が見える）          ヴェネツイア貴族の多くがこの橋（リアルト）の近くに居を構えた、、、　　　　　　　　　　　      　　　　　　　　　　　　　　　（豪華な貴族や総督の館が並ぶ）                   　　　       　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（グリマーニ館 現在裁判所）　　　　　　　　　　　　　　　　総督グリマーニが住んでいた    　　　               (4弁葉飾りなど窓のトレッサリーに凝らした当時の人々の余裕と心意気が感じられる）　　　これらの華麗で豪華な建物群を見ると往時の貴族の権勢が偲ばれる。　　ヴェネツイアでは、貴族は商業にも従事していたのである。イタリアの海洋国家の　　貴族たちは押しなべて海外交易で潤った。中世都市の碩学エネンは次のように　　述べている「イタリアでは、都市に定住する貴族が商業国を、商業居留地網の姿を　　呈する植民帝国を、作り出すことになった」と述べている（ヨーロッパの中世都市）。　　ヴェネツイアの貴族に詳しい永井三明氏は貴族の師弟は少年時代の勉学が終わると　　、はるかな地域に航海するのが常であった。その地で彼らは商業活動によって自分の　　財産をふやし、同時に外国の習慣、法律、言語の専門家となった書いている（注①）　　そういった貴族の館で貴族たちは賓客を招いて豪華な部屋で祝宴を催していたのであ　　る。　　　　貴族はまた政治にまで関与していた。Ｗ・Hマキニールは次のように述べています。　　「ヴェネツイア国家の運営に貴族階級がより密接に関与して手に入れたものは、　　かなりのものであった（「ヴェネツイア･東西ヨーロッパのかなめ１０８１－１７９７」）と。   中世ヴェネツイアで貴族が如何に権勢を誇ったか、カナル・グランデにならぶ建物群　　から見えてきます。　　（巻頭のマックス・ウエーバーの言葉は「都市の類型学」創文社より。　　　注①は「ヴェネツイア貴族の..</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-03-28T08:00:58+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　　「ヴェネツイアの国制的、行政的技術は、貴族家族相互間にきわめて厳格<br />　　　な相互的統制を加えながら、しかも<strong>都市貴族</strong>の ー 広大な農村および海外<br />　　　地域に対する ー 家産国家的専制政を実現したという点で有名である」<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（マックス・ウエーバー）<br />　　　<br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026536.JPG" border="0" alt="P1026536.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　（カナル･ｸﾞﾗﾝﾃﾞ大運河　奥に<strong>リアルト橋</strong>が見える）<br />          ヴェネツイア貴族の多くがこの橋（リアルト）の近くに居を構えた、、、<br />　　　　　　　　<br />　　　      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016503.JPG" border="0" alt="P1016503.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（豪華な貴族や総督の館が並ぶ）<br />                   <br />　　　       　　　　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026581.JPG" border="0" alt="P1026581.JPG" width="268" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（グリマーニ館 現在裁判所）<br />　　　　　　　　　　　　　　　　総督グリマーニが住んでいた<br />    </p><p>　　　 <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026565.JPG" border="0" alt="P1026565.JPG" width="512" height="384" /><br />              (<font size="2"><strong>4弁葉飾りな</strong>ど窓のトレッサリーに凝らした当時の人々の余裕と心意気が感じられる）</font><br />　　　これらの華麗で豪華な建物群を見ると往時の貴族の権勢が偲ばれる。<br />　　ヴェネツイアでは、貴族は商業にも従事していたのである。イタリアの海洋国家の<br />　　貴族たちは押しなべて海外交易で潤った。中世都市の碩学エネンは次のように<br />　　述べている「イタリアでは、<u>都市に定住する貴族が商業国を、商業居留地網の姿を<br /></u>　　<u>呈する植民帝国を、作り出す</u>ことになった」と述べている（ヨーロッパの中世都市）。<br /><br />　　ヴェネツイアの貴族に詳しい永井三明氏は貴族の師弟は少年時代の勉学が終わると<br />　　、はるかな地域に航海するのが常であった。その地で彼らは商業活動によって自分の<br />　　財産をふやし、同時に外国の習慣、法律、言語の専門家となった書いている（注①）<br />　　そういった貴族の館で貴族たちは賓客を招いて豪華な部屋で祝宴を催していたのであ<br />　　る。<br />　　<br />　　貴族はまた政治にまで関与していた。Ｗ・Hマキニールは次のように述べています。<br />　　「<u>ヴェネツイア国家の運営に貴族階級がより密接に関与</u>して手に入れたものは、<br />　　かなりのものであった（「ヴェネツイア･東西ヨーロッパのかなめ１０８１－１７９７」）と。<br />   中世ヴェネツイアで貴族が如何に権勢を誇ったか、カナル・グランデにならぶ建物群<br />　　から見えてきます。</p><p>　　（巻頭のマックス・ウエーバーの言葉は「都市の類型学」創文社より。<br />　　　注①は「ヴェネツイア貴族の世界」・刀水書房より）</p><p>&#160;</p><p>&#160;</p><p>&#160;</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-18">
<title>ロワールの畔の中世のジェルミニ・デ・プレ村を訪ねる（仏）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-18</link>
<description>　　　「当時、フランク人はキリスト教徒になってからかなりの年月を経ている　　　のに、農民はキリスト教徒であると同時に、古い信仰や迷信を信じてい　　　た。サン・ジェルマンの聖なる僧院領においても、土地の人々は古い　　　呪文を唱えていた」　　　　（アイリーン・パウア）　　　村の中心に教会がある,まるで中世を地でいったようなGermigny-      des-Pres ジェルミニ・デ・プレ村を２０１１年春訪ねました。 　　　　上記のアイリーン・パウアが述べているようにこの村はサン・ジェルマンの僧院　　領からもほど近いところの村であるから状況はこの村も変わらなかったものと思　　れる．                    　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（村の目抜き通り）           　　　　　　　　　　　　　　　（プレ・ロマネスク　ジェルミニ・デ・プレ・教会）　　　　　　　　　　　　８０６年献堂のプレ・ロマネスク　　　　　　←　詳しくは別館「ロマネスクの世界」へ左のサイド・バーからどうぞ                        　　　　　　　　　　　　　  　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（村役場）              　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（民家）　　　　村を散策した後、村の中心にあるホテルに泊まりましたが、夕食時には村の人々　　　がグループで食事をしていました。寄り合いのようなパーティでした。たまたま一緒　　　になりましたが、郷土料理、地酒、きっとその日の出来事を話しているのでしょう。　　　ちょっとした喧騒の中の食事、都会のホテルには無い雰囲気が漂っていました。      ものの本によると、「（中世では）教会は村で唯一つの石造建築であり、それは村人　　　にとって、日曜の礼拝や四季の宗教的祝祭、冠婚葬祭の挙式の場所だったばかり　　　でなく、各種集会の公会堂でもあった」とある。この村の教会もきっとそのような場所　　　だったのであろう。　　　　　　フランスの村は中世以来、成り立ちはほとんど変わりません（勿論、家などの形　　　は替わっても）そのへんが、歩くのに魅力的なのかもしれません。　　　　この村の小ぶりの教会といい、静かな佇まいといい、いっぺんに気にいりました。　　　パリから近いので(下の地図参照。（－）を数回クリックします..</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-03-18T07:07:42+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　　「当時、フランク人はキリスト教徒になってからかなりの年月を経ている<br />　　　のに、農民はキリスト教徒であると同時に、古い信仰や迷信を信じてい<br />　　　た。サン・ジェルマンの聖なる僧院領においても、土地の人々は古い<br />　　　呪文を唱えていた」　　　　（アイリーン・パウア）<br /><br />　　　村の中心に教会がある,まるで中世を地でいったようなGermigny-<br />      des-Pres ジェルミニ・デ・プレ村を２０１１年春訪ねました。 <br />　　<br />　　上記のアイリーン・パウアが述べているようにこの村はサン・ジェルマンの僧院<br />　　領からもほど近いところの村であるから状況はこの村も変わらなかったものと思<br />　　れる．                    <br /><br />　　　　　　　　　　 　　　　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126799-c2c6b.JPG" border="0" alt="P1126799.JPG" width="256" height="192" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（村の目抜き通り）<br /><br />           <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1116718-4adcf.JPG" border="0" alt="P1116718.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（プレ・ロマネスク　ジェルミニ・デ・プレ・教会）<br />　　　　　　　　　　　　８０６年献堂のプレ・ロマネスク<br />　　　　　　←　詳しくは別館「<font color="#ff0000">ロマネスクの世界」</font><font color="#000000">へ左のサイド・バーから</font><font color="#ff0000"></font>どうぞ<br /><br />                        <br />　　　　　　　　　　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126795.JPG" border="0" alt="P1126795.JPG" width="256" height="192" />  <br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（村役場）<br /><br />          <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1126794-3e80b.JPG" border="0" alt="P1126794.JPG" width="512" height="384" />    <br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（民家）<br />　<br />　　　村を散策した後、村の中心にあるホテルに泊まりましたが、夕食時には村の人々<br />　　　がグループで食事をしていました。寄り合いのようなパーティでした。たまたま一緒<br />　　　になりましたが、郷土料理、地酒、きっとその日の出来事を話しているのでしょう。<br />　　　ちょっとした喧騒の中の食事、都会のホテルには無い雰囲気が漂っていました。<br /><br />      ものの本によると、「（中世では）教会は村で唯一つの石造建築であり、それは村人<br />　　　にとって、日曜の礼拝や四季の宗教的祝祭、冠婚葬祭の挙式の場所だったばかり<br />　　　でなく、各種集会の公会堂でもあった」とある。この村の教会もきっとそのような場所<br />　　　だったのであろう。　　　<br /><br />　　　フランスの村は中世以来、成り立ちはほとんど変わりません（勿論、家などの形<br />　　　は替わっても）そのへんが、歩くのに魅力的なのかもしれません。　<br />　　　この村の小ぶりの教会といい、静かな佇まいといい、いっぺんに気にいりました。<br />　　　パリから近いので(下の地図参照。（－）を数回クリックしますと、フランスのどの<br />　　　あたりかわかります）これからも頻繁に通うことになりそうです。　<br /><br />　　（注：巻頭の言葉は「中世に生きる人々　アイリーン・パウア著　三好洋子訳　東大出版会）　<br /><br />　　　　　　ジェルミニ・デ・プレ村<br />　　　　　<!-- map --><iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=47.845624&amp;lng=2.266394&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe></p><!--/ map --><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08">
<title>サン・マルコと四皇帝像の話（　ヴェネツイア・シリーズ⑪）（伊）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08</link>
<description>     「率直に言おう、いま見るサン・マルコ寺院は、異常なまでに、装飾過剰　　　であり、途方もなく異邦的に思えるのではなかろうか？　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（F・ブローデル）　　　　　　　　　　　（サン・マルコのドゥカーレ宮殿側　左矢印石柱　右は四皇帝像）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ローマ四皇帝像・一番左はディオクレティアヌス帝４C）　　　　　　　（植物文様の浮き彫りがほどこされた角柱の一つ）　サン・マルコの壁には、正面には前回お送りした４頭の馬（のレプリカ）像が　あったり、今回の上記の石像はいずれも第四回十字軍が占領したコンスタ-  ンチノーブルから奪って来たものと言われている。　巻頭のブローデルも指摘しているように(聖なる寺院に十字軍が取ってきた物　でまわりの壁を飾っているのが)あまりに装飾過多で,意外な像に戸惑いを覚　えたものである（四皇帝像の一番左のディオクレティアヌスはローマ時代キリ-　スト教徒を弾圧していたのだから）。そして人物像は確かに東方的と言おうか　異邦的である。シ-リアあたりで制作された、、、、。像自体は素朴で面白い。　　　　どうやら上記の謎の答は隣の統領の建物、ドゥカーレにあるのではない　だろうか。つまり当時はこの寺院の持ち主は隣に住んでいた統領など統治者　だったのである（ドゥカーレの礼拝堂）。戦利品で飾っているのは当時のヴェネ-　ツイアの政教一致的な世俗性に理由があるのだろう（ホレこれ勝ち取ったもの　みたいな）。建築は時代の反映なのである。　（注：四皇帝像はローマ時代のディオクレティアヌス帝(在位284～305年イリリア　　の出身で一兵卒から身を起こした）の改革、四分治制はローマ帝国の広大な領　　土を混乱から建て直し、確実に治めるために帝国を四つにわけて統一したこと　　（4世紀末ごろ）を意味している　4世紀ごろエジプトかシリアで製造されたもの　　といわれている）　（尚、巻頭の言葉は『都市ヴェネツイア　F・ブローデル著岩崎力訳　岩波書店）</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-03-08T05:27:08+09:00</dc:date>
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<p><br />     「率直に言おう、いま見るサン・マルコ寺院は、異常なまでに、装飾過剰<br />　　　であり、途方もなく異邦的に思えるのではなかろうか？<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（F・ブローデル）<br />　<br />　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016435.JPG" border="0" alt="P1016435.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　（サン・マルコのドゥカーレ宮殿側　左矢印石柱　右は四皇帝像）<br /><br />　　　　　　　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026521.JPG" border="0" alt="P1026521.JPG" width="384" height="512" /><br />　　　　　　　　　　　（<strong>ローマ四皇帝像</strong>・一番左はディオクレティアヌス帝４C）<br /><br />　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026531.JPG" border="0" alt="P1026531.JPG" width="512" height="384" />　<br />　　　　（植物文様の浮き彫りがほどこされた角柱の一つ）<br /><br />　サン・マルコの壁には、正面には前回お送りした４頭の馬（のレプリカ）像が<br />　あったり、今回の上記の石像はいずれも第四回十字軍が占領したコンスタ-<br />  ンチノーブルから奪って来たものと言われている。<br /><br />　巻頭のブローデルも指摘しているように(聖なる寺院に十字軍が取ってきた物<br />　でまわりの壁を飾っているのが)あまりに装飾過多で,意外な像に戸惑いを覚<br />　えたものである（四皇帝像の一番左のディオクレティアヌスはローマ時代キリ-<br />　スト教徒を弾圧していたのだから）。そして人物像は確かに東方的と言おうか<br />　異邦的である。シ-リアあたりで制作された、、、、。像自体は素朴で面白い。　　</p><p>　　どうやら上記の謎の答は隣の統領の建物、ドゥカーレにあるのではない<br />　だろうか。つまり当時はこの寺院の持ち主は隣に住んでいた統領など統治者<br />　だったのである（<u>ドゥカーレの礼拝堂</u>）。戦利品で飾っているのは当時のヴェネ-<br />　ツイアの政教一致的な世俗性に理由があるのだろう（ホレこれ勝ち取ったもの<br />　みたいな）。建築は時代の反映なのである。<br /><br />　（注：四皇帝像はローマ時代の<u><strong>ディオクレティアヌス</strong>帝</u>(在位284～305年イリリア<br />　　の出身で一兵卒から身を起こした）の改革、<u><strong>四分治制</strong>はローマ帝国の広大な領<br />　　土を混乱から建て直し、確実に治めるために帝国を四つにわけて統一</u>したこと<br />　　（4世紀末ごろ）を意味している　4世紀ごろエジプトかシリアで製造されたもの<br />　　といわれている）<br />　（尚、巻頭の言葉は『都市ヴェネツイア　F・ブローデル著岩崎力訳　岩波書店）</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-27">
<title>ライン川の畔の中世の町ボン（独）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-27</link>
<description>　　昨年の冬（２０１１）、久しぶりにボンを訪ねた。前に訪ねたのはドイツの旧首都の　時代だから、かなり昔である。　この町はライン川の畔にありベートーベンの生家や大学のある静かな佇まいには、　大都会と違って何かほっとする。ローマ時代以来の古い町であり、大聖堂catedr　ale Saint-Martin など中世の面影を残す町でもあります。　       　　　　　　　　　　　　　　　（ライン川）　　　　　　　　　　　　　　　       　　　　　　　　　　　　　　　　　　（大聖堂　１２Ｃ）　　　　　　　町の中心にあるロマネスク様式の大聖堂を訪ねました　　　　　　　　　　　　　ただ今別館「ロマネスクの世界」にて詳しく紹介しています。　　　←　左のサイドバーからお立ち寄り頂ければ幸いです    。　　　 (名門　ボン大学）　　　　　　　　　　　　　　　　（ベートーベン生家）　　　　       　　　　　　　　下の方に矢狭らしいのが見えるから中世の市門の名残だろうか。　　　　　　　　　　　　ボン　　　　　　  追記　泊まった後で。　自分は数回訪ねているので、目新しい気がしませんでしたが、今回は娘家族と　一緒でした。今回は初めてライン川沿いのホテルに泊まりましたが、これは　正解でした。周囲は瀟洒な家が並ぶ住宅街、そして川沿いには、レストランも沢　山あり散策の後夕飯と洒落込みました。ラインを見ながらの食事、最高でした。　町に出てベートーベンの生家を訪ねました。家には彼が使用したピアノなどが　展示。やはりここは何回訪ねても良い。川沿いのホテルに泊まり、町を歩く。こ　こボンはそんな町歩きに最適だと泊まったあと思いました。&amp;#160;</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-02-27T05:31:44+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　昨年の冬（２０１１）、久しぶりにボンを訪ねた。前に訪ねたのはドイツの旧首都の<br />　時代だから、かなり昔である。<br />　この町はライン川の畔にありベートーベンの生家や大学のある静かな佇まいには、<br />　大都会と違って何かほっとする。ローマ時代以来の古い町であり、大聖堂catedr<br />　ale Saint-Martin など中世の面影を残す町でもあります。　<br /><br /><br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276253.JPG" border="0" alt="PC276253.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（ライン川）　　　　　　　　　　　　　　　<br /><br /><br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276271.JPG" border="0" alt="PC276271.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　（大聖堂　１２Ｃ）<br />　　　　　　　町の中心にあるロマネスク様式の大聖堂を訪ねました<br />　　　　　　<br />　　　　　　　ただ今別館「<font color="#ff0000"><strong>ロマネスクの世界</strong></font>」にて詳しく紹介しています。<br />　　　←　左のサイドバーからお立ち寄り頂ければ幸いです<br /><br /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276280.JPG" border="0" alt="PC276280.JPG" width="256" height="192" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276282.JPG" border="0" alt="PC276282.JPG" width="256" height="192" />  <br />。　　　 (名門　ボン大学）　　　　　　　　　　　　　　　　（ベートーベン生家）<br />　　　　<br /><br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276285.JPG" border="0" alt="PC276285.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　下の方に矢狭らしいのが見えるから中世の市門の名残だろうか。<br />　　　　　　　　　　　　ボン<br />　　　　　　<!-- map --><iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=50.7116826&amp;lng=7.1047327&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe><br /><br />  追記　泊まった後で。<br />　自分は数回訪ねているので、目新しい気がしませんでしたが、今回は娘家族と<br />　一緒でした。今回は初めてライン川沿いのホテルに泊まりましたが、これは<br />　正解でした。周囲は瀟洒な家が並ぶ住宅街、そして川沿いには、レストランも沢<br />　山あり散策の後夕飯と洒落込みました。ラインを見ながらの食事、最高でした。<br />　町に出てベートーベンの生家を訪ねました。家には彼が使用したピアノなどが<br />　展示。やはりここは何回訪ねても良い。川沿いのホテルに泊まり、町を歩く。こ<br />　こボンはそんな町歩きに最適だと泊まったあと思いました。</p><p>&#160;</p><!--/ map --><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18">
<title>本　ビザンチン美術</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18</link>
<description>　「ビザンチン美術」ポール・ルメルル著辻佐保子訳美術出版社１９６４，２，２９　初版１９７８，７，１０　６版     (ダフニ修道院　モザイク　聖母）　　　ビザンチン美術というとある種の甘美な感覚に満たされる。何故だろうか。　私は、これまでシチリア、ラヴェンナなどビザンチン美術の宝庫の場所を　訪ねて来た。その影響下にあるヴェネツイアのサン・マルコも再び訪ね、　その美術（モザイクなど）に浸った（ヴェネツイア・シリーズにて大聖堂は　既報）　この本の中で著者は「ビザンスは、ペルシャ、イスラムなどの東方文化国　から、みずからこれらの諸国に与えたものよりはるかに多くの要素を受け　取っている」と書いている。私には、示唆に富んだ言葉に思える。　そのほか、私も以前訪ねたペリグーのサン・フロンなど円蓋式教会堂につい　ても、「完全にビザンチン的な」美術的であるとか、ロマネスク美術の起源は　ほかならぬコンスタノポリスの側に探し求めなければならないとか、、、。しか　しこのような過激説明は放棄されていると述べています。今では、通説にな　っていますが、これなど、著者が先鞭をつけた説ではないだろうか。　著者はビザンス美術だけでなくその歴史に多くのページをさいている。　著者は美術史家である前に歴史家の色合いが強い気がします。　　いずれビザンスの世界（ギリシャ、トルコ、アルメニアなど）を訪ね歩き　たいと思っていますが（イスタンプールはかって訪ねた）、きっとそのた　びにこの本を参考に開くことでしょう。　なお、訳者の辻佐保子さんは昨年末亡くなられた。美術史関連の多くの　優れた訳業を為されたり、ロマネスク美術にも一家言をもっておられた。　そのためか、訳も読み安い。　私も、そのうち２，３の本が手元にあります　（全て古書として手に入れる）。作家の辻邦生氏の夫人であつたことは後　で知りました。　あらためて、ご冥福をお祈りしたい。　</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-02-18T10:08:10+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　<img style="width: 295px; height: 230px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P2116825.JPG" border="0" alt="P2116825.JPG" width="295" height="230" align="left" /><br /><br /><strong><font size="4">「ビザンチン美術」</font></strong></p><p>ポール・ルメルル著<br />辻佐保子訳<br /><br />美術出版社</p><p>１９６４，２，２９　初版<br />１９７８，７，１０　６版<br /><br /><br />     <font size="2">(ダフニ修道院　モザイク　聖母）</font><br />　　<br /><br />　ビザンチン美術というとある種の甘美な感覚に満たされる。何故だろうか。<br />　私は、これまでシチリア、ラヴェンナなどビザンチン美術の宝庫の場所を<br />　訪ねて来た。その影響下にあるヴェネツイアのサン・マルコも再び訪ね、<br />　その美術（モザイクなど）に浸った（ヴェネツイア・シリーズにて大聖堂は<br />　既報）<br /><br />　この本の中で著者は「ビザンスは、ペルシャ、イスラムなどの東方文化国<br />　から、みずからこれらの諸国に与えたものよりはるかに多くの要素を受け<br />　取っている」と書いている。私には、示唆に富んだ言葉に思える。<br />　そのほか、私も以前訪ねたペリグーのサン・フロンなど円蓋式教会堂につい<br />　ても、「完全にビザンチン的な」美術的であるとか、ロマネスク美術の起源は<br />　ほかならぬコンスタノポリスの側に探し求めなければならないとか、、、。しか<br />　しこのような過激説明は放棄されていると述べています。今では、通説にな<br />　っていますが、これなど、著者が先鞭をつけた説ではないだろうか。<br />　著者はビザンス美術だけでなくその歴史に多くのページをさいている。<br />　著者は美術史家である前に歴史家の色合いが強い気がします。<br />　<br />　いずれビザンスの世界（ギリシャ、トルコ、アルメニアなど）を訪ね歩き<br />　たいと思っていますが（イスタンプールはかって訪ねた）、きっとそのた<br />　びにこの本を参考に開くことでしょう。<br />　なお、訳者の辻佐保子さんは昨年末亡くなられた。美術史関連の多くの<br />　優れた訳業を為されたり、ロマネスク美術にも一家言をもっておられた。<br />　そのためか、訳も読み安い。　私も、そのうち２，３の本が手元にあります<br />　（全て古書として手に入れる）。作家の辻邦生氏の夫人であつたことは後<br />　で知りました。<br />　あらためて、ご冥福をお祈りしたい。<br />　</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-07">
<title>城砦都市フェッラーラ　ferrara(伊）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-02-07</link>
<description>   「模範的な行政、感嘆すべき財政組織、そして政治諸制度の持続性がフェッラーラに　　政治的な重みを与え、ヨーロッパで最も輝かしい君候宮廷の一つを現出するため　　前提条件を創りだした、、」　（エディト・エネン）　　　今,シリーズとしてお送りしているヴェネツイアを歩いた後(昨年の新年）このフェッラーラ  に立ち寄りました。中世のコムーネ都市、ロンバルディア同盟の一員としての神聖ロー  マ帝国との争い、エステ家の権勢など中世都市国家としてのフェッラーラは知られた存在　ではあるが（上記エネンはシニョリーア制の存在はフェッラーラでは１３世紀を深くさかの　ぼる（（注））と述べています）、その割に現在では周りのヴェネツイア、ボローニア,ヴェ　ローナなどに較べて地味な存在かも知れない。      　　　　　　　　　　　　　　　　　（フェッラーラの目抜き通り）                                    　　　　　　　　　　　　　　　　　(エステ家居城）             　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(同上　お堀）       　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(同上）　　　　　　一見、城砦という威圧感は余り感じられなかった。　  　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(大聖堂）　　　　　ユニークな姿のＤｕｏｍｏ　ｄｉ　Ｆｅｒｒａｒa              　　　　　　　　　　(同上　下部がロマネスク　上部がゴシック）　　　大聖堂とエステ家居城を主に観ましたが、フェッラーラ派の絵画などルネサンス期の　文化の息吹をもっと感ずべく次回はじっくりこの中世都市を歩きたいと思いを強くしま  した。　  この記事の頭で地味な存在と述べましたが、中世時代のフェッラーラは周囲の都市と　遜色の無いあるいはそれ以上の中世都市といえるかも知れません。　　（注：ヨーロッパの中世都市・岩波書店）　　　　　　　　　　　　フェラーラ　　　　　　　</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-02-07T04:30:28+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />   「模範的な行政、感嘆すべき財政組織、そして政治諸制度の持続性がフェッラーラに<br />　　政治的な重みを与え、ヨーロッパで最も輝かしい君候宮廷の一つを現出するため<br />　　前提条件を創りだした、、」　（エディト・エネン）<br /><br />　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036601.JPG" border="0" alt="P1036601.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　今,シリーズとしてお送りしているヴェネツイアを歩いた後(昨年の新年）このフェッラーラ<br />  に立ち寄りました。中世の<strong>コムーネ都市</strong>、<strong>ロンバルディア同盟</strong>の一員としての<strong>神聖ロー<br /></strong>  <strong>マ帝国</strong>との争い、<strong>エステ家</strong>の権勢など中世都市国家としてのフェッラーラは知られた存在<br />　ではあるが（上記エネンは<strong>シニョリーア制</strong>の存在はフェッラーラでは１３世紀を深くさかの<br />　ぼる（（注））と述べています）、その割に現在では周りのヴェネツイア、ボローニア,ヴェ<br />　ローナなどに較べて地味な存在かも知れない。<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036609.JPG" border="0" alt="P1036609.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　（フェッラーラの目抜き通り）<br /><br />                             <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036608.JPG" border="0" alt="P1036608.JPG" width="256" height="192" /><br /><br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036611.JPG" border="0" alt="P1036611.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　(エステ家居城）<br /><br />      <br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036612.JPG" border="0" alt="P1036612.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(同上　お堀）<br /><br />       <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036613.JPG" border="0" alt="P1036613.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(同上）<br />　　　　　　一見、城砦という威圧感は余り感じられなかった。<br /><br />　 <img style="width: 268px; height: 202px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036602.JPG" border="0" alt="P1036602.JPG" width="268" height="202" /> <img style="width: 250px; height: 197px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036603.JPG" border="0" alt="P1036603.JPG" width="250" height="197" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(大聖堂）<br />　　　　　ユニークな姿のＤｕｏｍｏ　ｄｉ　Ｆｅｒｒａｒa</p><p><br />              <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036607.JPG" border="0" alt="P1036607.JPG" width="384" height="512" /><br />　　　　　　　　　　(同上　下部がロマネスク　上部がゴシック）<br />　　<br />　大聖堂とエステ家居城を主に観ましたが、フェッラーラ派の絵画などルネサンス期の<br />　文化の息吹をもっと感ずべく次回はじっくりこの中世都市を歩きたいと思いを強くしま<br />  した。<br />　<br />  この記事の頭で地味な存在と述べましたが、中世時代のフェッラーラは周囲の都市と<br />　遜色の無いあるいはそれ以上の中世都市といえるかも知れません。　<br />　（注：ヨーロッパの中世都市・岩波書店）<br /><br />　　　　　　　　　　　　フェラーラ<br /><br />　　　　　　<!-- map --><iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=44.8378378&amp;lng=11.6203994&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe><!--/ map --><br /><br />　</p><a name="more"></a>
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</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-26">
<title>ヴェネツイアと十字軍　歴史の証人</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-26</link>
<description>　　　　　　　　　「十字軍とヴェネツイアは、征服後の分け前をあらかじめ決めて、　　　　　　　　陸と海からこの町をせめた。ついに１２０４年四月１３日コンスタンチ　　　　　　　　ノーブルは陥落した」　（井上浩一注1）　　　　　ヴェネツイアは海運で培った海軍の力でビザンチンを力ずくでねじ伏せたのであろう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　サン・マルコの正面を飾る４頭の馬。第四回十字軍の戦利品の複製(ブロンズ製の本物は聖堂内博物館にある）。これらの馬の像はコンスタンチノーブルの大競技場のヒッポドロームを飾っていたという。そこから運ばれて来たのである。これらの像は歴史の証人というわけである。　　その陥落の模様を歴史家・橋口倫介氏は著書の中で(注２）次のよ　うに記している　「市民は老若男女を問わず虫けらのように殺され、婦人たちは路上　で陵辱され、皇帝の墓は暴かれて貴重な副葬品が盗み去られた」。　まるで殺戮のかぎりをつくした最初の十字軍のエルサレム入城を彷　彿とさせる。　この十字軍はフランスの諸侯とヴェネツイア人が主役を演じたわけ　だが、まさに中世の歴史の一断面である。　(注１　ビザンツ帝国・岩波　　注2　中世のコンスタンチノーブル・三省堂）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                  ヴェネツイア・シリーズ⑩　　　　　　　　　　　　　　　　(不定期にお送りしています）　　　　</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-01-26T17:10:37+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　　　　　　　　「十字軍とヴェネツイアは、征服後の分け前をあらかじめ決めて、<br />　　　　　　　　陸と海からこの町をせめた。ついに<u>１２０４年四月１３日</u>コンスタンチ<br />　　　　　　　　ノーブルは陥落した」　（井上浩一注1）<br />　<br />　　　　ヴェネツイアは海運で培った海軍の力でビザンチンを力ずくでねじ伏せたのであろう。　　　　　　　　　　　　　　<br />　<img style="width: 210px; height: 146px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1036587.JPG" border="0" alt="P1036587.JPG" width="210" height="146" align="left" />　　　　　　　<br />サン・マルコの正面を飾る４頭の馬。<u>第四回十字軍<br /></u>の戦利品の複製(ブロンズ製の本物は聖堂内博<br />物館にある）。<br />これらの馬の像はコンスタンチノーブルの大競技<br />場の<u>ヒッポドローム</u>を飾っていたという。そこから<br />運ばれて来たのである。これらの像は歴史の証<br />人というわけである。<br /><br /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026532-899f9.JPG" border="0" alt="P1026532.JPG" width="512" height="384" align="left" /></p><p><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />　<br />　その陥落の模様を歴史家・橋口倫介氏は著書の中で(注２）次のよ<br />　うに記している<br />　「市民は老若男女を問わず虫けらのように殺され、婦人たちは路上<br />　で陵辱され、皇帝の墓は暴かれて貴重な副葬品が盗み去られた」。<br />　まるで殺戮のかぎりをつくした最初の十字軍のエルサレム入城を彷<br />　彿とさせる。<br />　この<u>十字軍はフランスの諸侯とヴェネツイア人</u>が主役を演じたわけ<br />　だが、まさに中世の歴史の一断面である。<br />　(注１　ビザンツ帝国・岩波　　注2　中世のコンスタンチノーブル・三省堂）<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />                                  ヴェネツイア・シリーズ⑩<br />　　　　　　　　　　　　　　　　(不定期にお送りしています）　　　　</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-21">
<title>湖のほとりの優美なロマネスク　マリア・ラーハ(独）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-21</link>
<description>　　　　　　ライン川の畔の古都ヴォルムスから次に訪れたのが湖畔の静かな環境にある　　マリア・ラーハ。今回、一番訪ねたかったドイツ・ロマネスクの代表格といえます。　　名前そのものの、文字通り、優美なロマネスクでした。湖は少し離れているため、　　残念ながら見通せませんでした。　　中世美術の碩学がそろって、この大型のロマネスクはカロリング、オットー朝と　　関連があると述べていますが、私もかねがね主張しているようにロマネスクの　　ような宗教建築といえども、当時（中世の）政治体制や社会と密接な関係性が　　あるといえます。そのあたりは以下でご参照下さい。　　　←　詳細につきましては、別館「ロマネスクの世界」に左のサイドバーからお越し頂　　　ければ幸いです。　　</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-01-21T10:55:16+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC276248.JPG" border="0" alt="PC276248.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　　ライン川の畔の古都ヴォルムスから次に訪れたのが湖畔の静かな環境にある<br />　　マリア・ラーハ。今回、一番訪ねたかったドイツ・ロマネスクの代表格といえます。<br />　　名前そのものの、文字通り、優美なロマネスクでした。湖は少し離れているため、<br />　　残念ながら見通せませんでした。<br /><br />　　中世美術の碩学がそろって、この大型のロマネスクはカロリング、オットー朝と<br />　　関連があると述べていますが、私もかねがね主張しているようにロマネスクの<br />　　ような宗教建築といえども、当時（中世の）政治体制や社会と密接な関係性が<br />　　あるといえます。そのあたりは以下でご参照下さい。<br />　　<br />　<font color="#ff0000">←</font>　詳細につきましては、別館「<font color="#ff0000">ロマネスクの世界</font>」に左のサイドバーからお越し頂<br />　　　ければ幸いです。<br />　　<a name="more"></a>
]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14">
<title>　ラインの畔の中世都市　ヴォルムス(独）</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14</link>
<description>　 　私は別館｢ロマネスクの世界」のシリーズでドイツ・　ライン川の畔にあるロマネスク巡り　をお送りしていますが、現在お送りしているシュパイヤーからマリア・ラーハに向かう途　中ヴォルムスに立ち寄りました。正直言って、次の訪問する予定のマリア・ラーハが気　になって（距離的にここから、一寸遠い）ここに立ち寄る気はありませんでしたが、運転　してくれているセヴァスチャンが熱心に大聖堂を観てきたほうがいいよと勧めてくれた。　まあ、短い時間だったらいいかと大聖堂を観ることにしました。 　地　　　　　　　　　（大聖堂　東側祭室）　　　　　　　　　　　　　　　　　　(内部）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（やはりロマネスクは暗い）　　　　　　　　　　　　　　　　　結果的にみて、大正解でした。この大聖堂はライン河畔のロマネスクの古刹でした。　ロマネスクの大家、柳宗玄氏は「ライン川中流を支配するロマネスク大聖堂の一つ　であり、完成までに２世紀余りを費やしながら、様式の統一性おおおむね保ちえた　壮麗な大聖堂である」と述べています(注①）。このロマネスクは東西二つの祭室が　ある、一風変わったロマネスクでした。ゴシック様式の教会堂を見慣れた目には　やはり薄暗く感じられました。　さて、この大聖堂のある町は中世には大変は中世都市だったのです。エネンは著書　の中で(注②）、７，８世紀のフランク王国の行政においてはヴォルムスは属州中ゲル　マニアのかっての中心地マインツをしのぐ地位を占めていたと述べています。また同著　の中で、カール大帝治下のアーヘンとヴォルムス、ルートヴィヒ、ドイツ王治下のフラン　クフルトとレーゲンスブルクはお気に入りの滞在であり、本来の首都ではなくして、　玉座の主要な滞在地なのである」と述べています。　また、この地は１１世紀後半から１２世紀にかけて高位の聖職者の任命権を巡る　教皇とドイツ皇帝の争い（叙任権闘争）の中、ドイツ皇帝ハインリヒ５世とローマ教　皇カリクストゥス２世との間に結ばれ,この問題の決着をみたヴォルムスの協約（（１１２２年）の由緒ある場所でもある。　またそれ以前の、かの有名な「カノッサの屈辱」でグレゴリウス７世からの破門の　発端になったヴォルムスの決議(教皇への不服従とその廃位を声明　注③）を　ハイリッヒ４世が行った場所もここヴォルムスだったのである。時間の都合上、　歴史的に非常に重要な舞台で..</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-01-14T16:42:44+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p>　 <br />　私は別館｢ロマネスクの世界」のシリーズでドイツ・　ライン川の畔にあるロマネスク巡り<br />　をお送りしていますが、現在お送りしているシュパイヤーからマリア・ラーハに向かう途<br />　中ヴォルムスに立ち寄りました。正直言って、次の訪問する予定のマリア・ラーハが気<br />　になって（距離的にここから、一寸遠い）ここに立ち寄る気はありませんでしたが、運転<br />　してくれているセヴァスチャンが熱心に大聖堂を観てきたほうがいいよと勧めてくれた。<br />　まあ、短い時間だったらいいかと大聖堂を観ることにしました。 <br /><br />　<img style="width: 252px; height: 168px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/CIMG2707.JPG" border="0" alt="CIMG2707.JPG" width="252" height="168" />地　<img style="width: 211px; height: 171px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/CIMG2708.JPG" border="0" alt="CIMG2708.JPG" width="211" height="171" /><br />　　　　　　　　（大聖堂　東側祭室）　　　　　　　　　　　　　　　　　　(内部）<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（やはりロマネスクは暗い）　　　　　　　　　　　　　　　<br />　<br />　結果的にみて、大正解でした。この大聖堂はライン河畔のロマネスクの古刹でした。<br />　ロマネスクの大家、柳宗玄氏は「ライン川中流を支配するロマネスク大聖堂の一つ<br />　であり、完成までに２世紀余りを費やしながら、様式の統一性おおおむね保ちえた<br />　壮麗な大聖堂である」と述べています(注①）。このロマネスクは東西二つの祭室が<br />　ある、一風変わったロマネスクでした。ゴシック様式の教会堂を見慣れた目には<br />　やはり薄暗く感じられました。<br /><br />　さて、この大聖堂のある町は中世には大変は中世都市だったのです。エネンは著書<br />　の中で(注②）、７，８世紀のフランク王国の行政においてはヴォルムスは属州中ゲル<br />　マニアのかっての中心地マインツをしのぐ地位を占めていたと述べています。また同著<br />　の中で、<u>カール大帝治下のアーヘンと<strong>ヴォルムス</strong></u>、ルートヴィヒ、ドイツ王治下のフラン<br />　クフルトとレーゲンスブルクは<u>お気に入りの滞在</u>であり、本来の首都ではなくして、<br />　<u>玉座の主要な滞在地</u>なのである」と述べています。<br /><br />　また、この地は１１世紀後半から１２世紀にかけて高位の聖職者の任命権を巡る<br />　教皇とドイツ皇帝の争い（<u>叙任権闘争</u>）の中、ドイツ皇帝ハインリヒ５世とローマ教<br />　皇カリクストゥス２世との間に結ばれ,この問題の決着をみた<strong>ヴォルムスの協約<br /></strong>（（１１２２年）の由緒ある場所でもある。<br /><br />　またそれ以前の、かの有名な「カノッサの屈辱」でグレゴリウス７世からの破門の<br />　発端になった<strong>ヴォルムスの決議</strong>(<u>教皇への不服従とその廃位</u>を声明　注③）を<br />　ハイリッヒ４世が行った場所もここヴォルムスだったのである。時間の都合上、<br />　歴史的に非常に重要な舞台であった場所をゆっくり見れなかったのは返すがえ<br />　すも残念ですが、また他日を期したいと思ったことでした。<br />　　　　（注①はロマネスク芸術　注②はヨーロッパの中世都市　注③今野国雄氏<br />　　　　の西欧中世の社会と教会）<br /><br />　　　　　　　　ヴォルムス<br /><br />　　　　　　<iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=49.6341372&amp;lng=8.3507182&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe></p><!--/ map --><p>  追記　書き忘れましたが、ヴォルムスは中世には<strong>コミューン運動</strong>が行われた所で<br />　　　　　　した。中世史家のプラーニッツは<br />　、　　　　「ライン河中流域の<u>司教</u>都市、マインツ、<u><strong>ヴォルムス</strong></u>、およびシャパイヤー<br />　　　　　　においても、コミューン運動は概に１１世紀に開始された。それがもっとも<br />　　　　　　早くなされたのは、<u><strong>ヴォルムス</strong></u>においてであった」と述べています。<br />　<br />　　　　　<br />　</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-07">
<title>ジャンヌ・ダルクと政治</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-07</link>
<description>ジャンヌ・ダルク　Jeanne d&amp;#39;Arc1412　仏ドンレミ村に生まれ、神のお告げを聞く。、１４２９年シノン城にシャルル王太子の許可のもと、その軍を差し出され、オルレアンを英軍から解放。ランスに王太子を迎えて戴冠させた。その後、英軍に捕まり、ルーアンの法廷で異端宣告そして火刑に。１４５６年再審、無罪となり名誉回復。１９２０年に聖人に列せられる。この像はランスの大聖堂の前にある。（yoku撮影）　　ジャンヌ・ダルクの生誕６００年に因んだ話を。　昨日１月６日はジャンヌ・ダルクの生誕６００年だということである。今朝(一月７日放送)の　ＮＨＫの衛星放送で知った。この放送は仏のＦ２で放送されたものを紹介したものであった。　普段はこの種の放送はあっさり見過ごすものだが、今回は一寸違った。というのもジャンヌ・ダ　ルクに因んだ場所をこれまで訪ね、掲載してきたからである。ルーアン、ドンレミ村、そして最近　ではシノン城など（かって訪問）。そんなこともあって見過ごせなかったわけである。　さて、今回の放送の何が興味あったかというと、ニュースで報道された、騒ぎの発端はサルゴ　ジ大統領がドンレミ村を訪ねたということ。つまりジャンヌが生まれた村である神の啓示を聞い　たとされる聖地である。　というのも、今年は大統領選挙の年である。当然現職のサルコジも立候補する。サルコジ氏　経済悪化もあってちょっと苦戦中らしい。その彼が訪ねた場所が国民的英雄の生まれた村と　なれば、当然注目される。それに丁度生誕６００年と来ている。　　野党その他はこの訪問は政治利用ではないかと騒いでいるらしい。　ご存知のように、ジャンヌはフランスを英軍から解放した国民的英雄である。（サルコジ側に　してみれば）その英雄の生誕記念日を利用しない手はないということか。　　まあ、「カトリックの国、フランスのあらゆる階層のアイドル」（注）、その政治利用も分からぬ　ではないが、近々大統領戦があるとなれば、政治利用でなないかと（痛くもない？）腹を探られて　も致し方ない気がします。以上、私には一寸気になるニュースでした。　(注：　高山一彦著　ジャンヌ・ダルク　岩波新書）</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-01-07T12:53:37+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br /><img style="width: 301px; height: 221px" src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/8459520.jpg" border="0" alt="8459520.jpg" width="301" height="221" align="left" />ジャンヌ・ダルク　Jeanne d&#39;Arc<br />1412　仏ドンレミ村に生まれ、神のお告げを聞く。、１４２９年シノン城にシャルル王太子の許可のもと、その軍を差し出され、オルレアンを英軍から解放。ランスに王太子を迎えて戴冠させた。その後、英軍に捕まり、ルーアンの法廷で異端宣告そして火刑に。１４５６年再審、無罪となり名誉回復。１９２０年に聖人に列せられる。<br />この像はランスの大聖堂の前にある。<br />（yoku撮影）<br /><br /><br /><br />　　ジャンヌ・ダルクの生誕６００年に因んだ話を。<br />　昨日１月６日はジャンヌ・ダルクの生誕６００年だということである。今朝(一月７日放送)の<br />　ＮＨＫの衛星放送で知った。この放送は仏のＦ２で放送されたものを紹介したものであった。<br /><br />　普段はこの種の放送はあっさり見過ごすものだが、今回は一寸違った。というのもジャンヌ・ダ<br />　ルクに因んだ場所をこれまで訪ね、掲載してきたからである。ルーアン、ドンレミ村、そして最近<br />　ではシノン城など（かって訪問）。そんなこともあって見過ごせなかったわけである。<br /><br />　さて、今回の放送の何が興味あったかというと、ニュースで報道された、騒ぎの発端はサルゴ<br />　ジ大統領がドンレミ村を訪ねたということ。つまりジャンヌが生まれた村である神の啓示を聞い<br />　たとされる聖地である。<br />　というのも、今年は大統領選挙の年である。当然現職のサルコジも立候補する。サルコジ氏<br />　経済悪化もあってちょっと苦戦中らしい。その彼が訪ねた場所が国民的英雄の生まれた村と<br />　なれば、当然注目される。それに丁度生誕６００年と来ている。<br /><br />　　野党その他はこの訪問は政治利用ではないかと騒いでいるらしい。<br />　ご存知のように、ジャンヌはフランスを英軍から解放した国民的英雄である。（サルコジ側に<br />　してみれば）その英雄の生誕記念日を利用しない手はないということか。<br /><br />　　まあ、「カトリックの国、フランスのあらゆる階層のアイドル」（注）、その政治利用も分からぬ<br />　ではないが、近々大統領戦があるとなれば、政治利用でなないかと（痛くもない？）腹を探られて<br />　も致し方ない気がします。以上、私には一寸気になるニュースでした。<br />　(注：　高山一彦著　ジャンヌ・ダルク　岩波新書）</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-03">
<title>景観画家とヴェネツイア</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-03</link>
<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ヴェネツイアの一風景　yoku撮影）　　地中海沿岸、島々を仕事や個人で結構歩きました（ほとんどは、ブログをやる前から）。　本当にこの内海は惹かれるものがあります。　　　　  地中海―人と町の肖像 (岩波新書)作者: 樺山 紘一出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2006/05/19メディア: 新書　　この本の中でたまたまヴェネツイアが出て来ます。景観という項目の中でですが、　カナレットという画家が描いたヴェネツイアの一連の絵（サン・マルコの運河波止　場など）もあります。　ヴェネツイアの画家といえば、ルネサンス時代のヴェネツイア派の画家を思い出し　ますが、カナレットはかなり後の時代の人ではありますが、後輩画家にあたる　わけです。　カナレットは１８世紀の人ですが、私には何か景観を写しとるカメラマンに思え　ます。恐らく、この時代の人々もカナレットの絵を見て、ヴェネツイアを訪ねたこと　でしょう。そういった意味では当時の人も現代の人々と何ら変わらないわけです。　この本のタイトルと著者にひかれて求めたわけですが、単にエッセイにとど　まらず、私には中世などの歴史本としても読める興味深い本だと思います。　　　本年もよろしくお願い致します。　     </description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2012-01-03T17:05:49+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<br />　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1016482.JPG" border="0" alt="P1016482.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　（ヴェネツイアの一風景　yoku撮影）<br /><br />　　地中海沿岸、島々を仕事や個人で結構歩きました（ほとんどは、ブログをやる前から）。<br />　本当にこの内海は惹かれるものがあります。<br />　　　　<!-- amazon --> <div class="sonet-asin-area"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004310156/sonet0f-22/ref=nosim" target="_blank"><img class="sonet-asin-image" src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/414NZNJE1JL._SL160_.jpg" alt="地中海―人と町の肖像 (岩波新書)" title="地中海―人と町の肖像 (岩波新書)" width="99" height="160" /></a> <div class="sonet-asin-info"><p class="sonet-asin-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004310156/sonet0f-22/ref=nosim" target="_blank">地中海―人と町の肖像 (岩波新書)</a></p><ul><li class="sonet-asin-label">作者: 樺山 紘一</li><li class="sonet-asin-label">出版社/メーカー: 岩波書店</li><li class="sonet-asin-label">発売日: 2006/05/19</li><li class="sonet-asin-label">メディア: 新書</li></ul></div></div><div class="sonet-asin-break"></div><!--/ amazon -->　　この本の中でたまたまヴェネツイアが出て来ます。景観という項目の中でですが、<br />　カナレットという画家が描いたヴェネツイアの一連の絵（サン・マルコの運河波止<br />　場など）もあります。<br />　ヴェネツイアの画家といえば、ルネサンス時代のヴェネツイア派の画家を思い出し<br />　ますが、カナレットはかなり後の時代の人ではありますが、後輩画家にあたる<br />　わけです。<br /><br />　カナレットは１８世紀の人ですが、私には何か景観を写しとるカメラマンに思え<br />　ます。恐らく、この時代の人々もカナレットの絵を見て、ヴェネツイアを訪ねたこと<br />　でしょう。そういった意味では当時の人も現代の人々と何ら変わらないわけです。<br /><br />　この本のタイトルと著者にひかれて求めたわけですが、単にエッセイにとど<br />　まらず、私には中世などの歴史本としても読める興味深い本だと思います。　<br />　<br />　本年もよろしくお願い致します。<br />　<br />     <a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-29">
<title>古都　シュパイヤー（独）を訪ねる</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-29</link>
<description>　　　　　　今年の新年（２０１１）ライン川沿いの古都シャパイヤー訪ねました。古刹シュ　パイヤー大聖堂の門前町みたいなところですが、文化の香りがするなかなか風情　のある中世の町でした。　　　　　　　　　　　（シュパイヤーの目抜き通り　中心の塔はALTPORTEL)　　　           　　　　　　　　　 (世界遺産　シュパイヤー大聖堂）　　　←　このロマネスクをより詳しくご覧になりたい方は別館「ロマネスクの世界」　　　（ただ今公開中）左サイド・バーからお訪ね頂ければ幸いです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　シュパイヤー　　　　　　　　&amp;#160;</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2011-12-29T05:25:07+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p>　　　<br />　　　今年の新年（２０１１）ライン川沿いの古都シャパイヤー訪ねました。古刹シュ<br />　パイヤー大聖堂の門前町みたいなところですが、文化の香りがするなかなか風情<br />　のある中世の町でした。<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC266231.JPG" border="0" alt="PC266231.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　（シュパイヤーの目抜き通り　中心の塔はALTPORTEL)<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC266204.JPG" border="0" alt="PC266204.JPG" width="512" height="384" /><br />           　　　　　　　　　 (<font color="#ff0000">世界遺産</font>　シュパイヤー大聖堂）<br />　　　←　このロマネスクをより詳しくご覧になりたい方は別館<strong><font color="#999999">「</font><font color="#ff0000">ロマネスクの世界</font></strong>」<br />　　　（ただ今公開中）左サイド・バーからお訪ね頂ければ幸いです。　　　　　<br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC266230.JPG" border="0" alt="PC266230.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC266222.JPG" border="0" alt="PC266222.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC266213.JPG" border="0" alt="PC266213.JPG" width="512" height="384" /><br /><br />　　　<br />　　　　　　　　　　シュパイヤー<br />　　<br />　　　　　　<iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=49.3204789&amp;lng=8.436217&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe><!--/ map --></p><p>&#160;</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-23">
<title>アーヘン　Ａａｃｈｅｎ（独）を訪ねる</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-23</link>
<description>　　　昨年の今頃、前から訪ねたいと思っていたアーヘン（独）を訪ねた。　　　雪が凄く積もっていたが、今年はどうなんだろう。      　　　　　　　　　　　（大聖堂　真中に宮廷礼拝堂の丸屋根　が見える）     宮廷礼拝堂の内部重要な天井（円蓋）は修復中であった。「新しきカエサル、シャルマーニュ（カール大帝７４２－８１４）はここ（アーヘン）で誕生し、生活し、埋葬され、ある重要な大建築がその記憶を保っている」とある（注①）この礼拝堂はラヴェンナのサン・ヴィターレに範をとったといわれ,八角堂の形である。大帝は祈りに度々この礼拝堂（８世紀）を訪れた　　    最初に述べたように、ながい間訪ねたいと思っていたここアーヘン、娘婿が雪の中を　車で遠路パリから連れて行ってくれた（彼はここからさほど離れていないフランスの出身）。　ここぞとばかりに欲張ってシュバイヤから始まってあと２，３箇所のロマネスクを訪ねた　（いずれupの予定）。こちとら、南国出身ときている、雪のドライブが苦手である。彼に　は大いに感謝している。　　　さて、アーヘンときたら、カール大帝とカロリング・ルネサンスで有名である。　「カール大帝は、カール二世とともに優れた芸術愛好家であり、愛書家であった。ラテン　文化の高さが彼の念頭にあったに違いない。イタリア滞在中にパルマに見出したイギリス　の博学アルクインをはじめ、後に大帝の伝記者になったエギンハルトなど多くの学識者や　僧職を彼はアーヘンの宮廷に集めた。　この大帝の意思と彼らの助力によって、カロリング時代の理想の方向、文芸復興の理想が　定められるのである。この場合、復興の理想となった古代は古典的な純正な古代ではなく　キリスト教化された古代、あるいはラヴェンナやコンスタンティノーブルであった」（注②）      　　　　　　　　　　（市庁舎 建物は雪化粧）　今回の旅は娘の家族も同道していたので、ゆっくり丹念には見学することが出来なかった。　見たかった礼拝堂天井も修復中であり、いずれ暖かいときにもう一度訪ねたいと思ってい　ます。尚、この礼拝堂と密接な関係があるサン・ヴィターレはこの後を含め数回訪ねていま　す（ここもいずれupする予定です）。　（注①ヨーロッパ中世・デュビィ 藤原書店　注②図説世界文化史体系・角川書店）　　　　　　アーヘン　　　　　</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2011-12-23T04:01:24+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><br />　　　昨年の今頃、前から訪ねたいと思っていたアーヘン（独）を訪ねた。<br />　　　雪が凄く積もっていたが、今年はどうなんだろう。<br /><br /><br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC286292.JPG" border="0" alt="PC286292.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　（大聖堂　真中に宮廷礼拝堂の丸屋根　が見える）<br />     <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC286296.JPG" border="0" alt="PC286296.JPG" width="256" height="192" align="left" /><br />宮廷礼拝堂の内部<br />重要な天井（円蓋）は修復中であった。<br />「新しきカエサル、シャルマーニュ（カール<br />大帝７４２－８１４）はここ（アーヘン）で<u>誕生<br />し、生活し、埋葬</u>され、ある重要な大建築が<br />その記憶を保っている」とある（注①）<br />この礼拝堂はラヴェンナの<u>サン・ヴィター<br />レ</u>に範をとったといわれ,八角堂の形で<br />ある。<br />大帝は祈りに度々この礼拝堂（８世紀）を訪<br />れた</p><p>　　    最初に述べたように、ながい間訪ねたいと思っていたここ<strong>アーヘン</strong>、娘婿が雪の中を<br />　車で遠路パリから連れて行ってくれた（彼はここからさほど離れていないフランスの出身）。<br />　ここぞとばかりに欲張ってシュバイヤから始まってあと２，３箇所のロマネスクを訪ねた<br />　（いずれupの予定）。こちとら、南国出身ときている、雪のドライブが苦手である。彼に<br />　は大いに感謝している。<br />　<br />　　さて、アーヘンときたら、カール大帝と<strong>カロリング・ルネサンス</strong>で有名である。<br />　「カール大帝は、カール二世とともに優れた芸術愛好家であり、愛書家であった。ラテン<br />　文化の高さが彼の念頭にあったに違いない。イタリア滞在中にパルマに見出したイギリス<br />　の博学<strong>アルクイン</strong>をはじめ、後に大帝の伝記者になったエギンハルトなど多くの学識者や<br />　僧職を彼は<u>アーヘンの宮廷</u>に集めた。<br /><br />　この大帝の意思と彼らの助力によって、カロリング時代の理想の方向、<strong>文芸復興</strong>の理想が<br />　定められるのである。この場合、復興の理想となった古代は古典的な純正な古代ではなく<br />　キリスト教化された古代、あるいは<strong>ラヴェンナ</strong>や<strong>コンスタンティノーブル</strong>であった」（注②）<br />      <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC286288.JPG" border="0" alt="PC286288.JPG" width="396" height="384" /><br />　　　　　　　　　　（市庁舎 建物は雪化粧）<br />　今回の旅は娘の家族も同道していたので、ゆっくり丹念には見学することが出来なかった。<br />　見たかった礼拝堂天井も修復中であり、いずれ暖かいときにもう一度訪ねたいと思ってい<br />　ます。尚、この礼拝堂と密接な関係があるサン・ヴィターレはこの後を含め数回訪ねていま<br />　す（ここもいずれupする予定です）。<br />　（注①ヨーロッパ中世・デュビィ 藤原書店　注②図説世界文化史体系・角川書店）<br /><br />　　　　　　アーヘン<br />　　<br />　　　<iframe scrolling="no" frameBorder="0" src="http://blog.so-net.ne.jp/_map/?lat=50.7733179&amp;lng=6.1021106&amp;size=200&amp;type=0&amp;pin=0" style="width: 206px; height: 170px; border: #666666 1px solid"></iframe></p><!--/ map --><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-15">
<title>ヴェネツイアとニューヨーク</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-15</link>
<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ヴェネツイアの一風景）　本を読む　「２１世紀の歴史」　ジャック・アタリ著　林昌宏訳　作品社　著者ジャック・アタリ　Jaques　Attaliアルジェリア生まれのフランス人仏国立行政学院（Ena)卒１９８１～１９９０年ミッテラン政権において大統領特別補佐官を勤める、、、。政治・経済界で重責を担う一方で、経済学者、思想家・作家としても幅広く活躍し、まさにフランスを代表する知性というべき存在となっている。（本の著者紹介より）　　　　この本を読んでいるうちに、ヴェネツイアについての記述があり興味深く読んだ。というのは、  前回　ガレー船について書きましたが、この本にたまたまガレー船について書かれていたの  てそこに目が行ったのです。　（１４世紀か１５世紀ごろと思いますが、）ガレー船を漕ぐ５万人の水夫と出ていたからです。  そのころのヴェネアツイアの人口は１３３８年に９万と中世史家エネンは書いていますから、  半分以上が水夫だったわけです。ヴェネツイアの繁栄にガレー船の水夫が大いに寄与して　いたことになります。　今回この本に注目したのは、次の記事です。　「洗練された株式市場、商社、商業銀行、保険会社のエージェントとなったのはヴェネツイア　であった。また、大勢の小口預金者により財源を確保するすなわち株式会社によって船をチ　ャーターする事業を始めたのもｳﾞｪﾈﾂｲｱである」という話である。この時代の株式の記述には　驚かされる。　この本を読んで感じたのは中世のヴェネツイアと現在のニューヨークとの類似性である。　　勿論、河や海に囲まれた環境も似てますが、金融の本場ニューヨークは格差デモに象徴する　ように、苦境に立たされています。　著者は中世のヴェネツイアについて次のようにも書いています。「ガレー船や軍隊のカルテル　は、通商路の安全を確保するための十分な規模や軍備にも欠如し、社会組織全体が高コス　トに苦しんだのである。　　さらに、ドイツの高山から採掘された貴金属は、さらに希少になり高値となった。ところが、トル　コからの圧力で息が詰まりそうになったヴェネツイアでは、１０万人の人々があまりにも裕福と　なり、豪奢な生活を　送っていたためについに感覚が鈍り始めてしまった、、、、」　まさに、現代のニューヨークは中世のヴェネツイアを彷彿とさせる。この本の著者は現在のヨー　ロッパ..</description>
<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2011-12-15T05:38:03+09:00</dc:date>
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<p><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC316362.JPG" border="0" alt="PC316362.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ヴェネツイアの一風景）<br /><br />　<font size="4"><strong>本を読む<br /></strong><br /></font>　「２１世紀の歴史」<br />　ジャック・アタリ著<br />　林昌宏訳<br />　作品社　<br /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC136815.JPG" border="0" alt="PC136815.JPG" width="256" height="192" align="left" />著者<br />ジャック・アタリ　Jaques　Attali<br />アルジェリア生まれのフランス人<br />仏国立行政学院（Ena)卒<br />１９８１～１９９０年ミッテラン政権において大統領<br />特別補佐官を勤める、、、。<br />政治・経済界で重責を担う一方で、経済学者、思想<br />家・作家としても幅広く活躍し、まさにフランスを代表<br />する知性というべき存在となっている。<br />（本の著者紹介より）</p><p>　　　<br />　この本を読んでいるうちに、ヴェネツイアについての記述があり興味深く読んだ。というのは、<br />  前回　ガレー船について書きましたが、この本にたまたまガレー船について書かれていたの<br />  てそこに目が行ったのです。<br />　（１４世紀か１５世紀ごろと思いますが、）<u>ガレー船を漕ぐ５万人の水夫</u>と出ていたからです。<br />  そのころのヴェネアツイアの人口は１３３８年に９万と中世史家エネンは書いていますから、<br />  半分以上が水夫だったわけです。ヴェネツイアの繁栄にガレー船の水夫が大いに寄与して<br />　いたことになります。<br /><br />　今回この本に注目したのは、次の記事です。<br />　「洗練された株式市場、商社、商業銀行、保険会社のエージェントとなったのはヴェネツイア<br />　であった。また、大勢の小口預金者により財源を確保するすなわち株式会社によって船をチ<br />　ャーターする事業を始めたのもｳﾞｪﾈﾂｲｱである」という話である。この時代の株式の記述には<br />　驚かされる。<br />　この本を読んで感じたのは中世のヴェネツイアと現在のニューヨークとの類似性である。<br />　<br />　勿論、河や海に囲まれた環境も似てますが、金融の本場ニューヨークは格差デモに象徴する<br />　ように、苦境に立たされています。<br />　著者は中世のヴェネツイアについて次のようにも書いています。「ガレー船や軍隊のカルテル<br />　は、通商路の安全を確保するための十分な規模や軍備にも欠如し、社会組織全体が高コス<br />　トに苦しんだのである。<br />　<br />　さらに、ドイツの高山から採掘された貴金属は、さらに希少になり高値となった。ところが、トル<br />　コからの圧力で息が詰まりそうになったヴェネツイアでは、<u>１０万人の人々があまりにも裕福と<br />　なり、豪奢な生活を　送っていたためについに</u>感覚が鈍り始めてしまった、、、、」<br /><br />　まさに、現代のニューヨークは中世のヴェネツイアを彷彿とさせる。この本の著者は現在のヨー<br />　ロッパ（特にフランスの）の債務危機格付けの下落をを予言しているような箇所もある。そうい<br />　った意味で示唆に富む本であり　一読の価値があると思います。<br /> 　(尚、断っておきますが、NYにつきましては私（yoku)の見解です）<br />                       <br />　　　　　ヴェネツイア・シリーズ⑨　（このシリーズは不定期にお送りしています）</p><p>　　<br />　　</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-10">
<title>ヴェネツイアと船の話</title>
<link>http://yoku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-10</link>
<description>　　　「ヴェネツイアは、かこい込まれた潟（ラングーン）という文字通り川と外海　　　　の中間に位置しているために、このような実験を行なうには理想的な場　　　　所にあった。緊急に際には、河川交通用の船が静かな潟（ラングーン）　　　　の水をはなれて、広いアドリア海へとあえて出て行くこともしばしばあっ　　　　たに違いない」（Ｗ・Ｈ・マクニール）　　　　　　　　　　　(今は観光用のゴンドラが長閑（のどか）に浮かぶラ・グランデ）　　　　　　　　　中世には東方に向かう多くの商船で賑わっていたことだろう、、、、　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　シリーズとしてお送りしているヴェネツイア(昨年年末から新年にかけて訪問）で、　今回は交易国家として栄えたヴェネツイアの船の話は外すことが出来ません。　さて、その船の話であるが、レヴァント貿易に当たっていたヴェネツイアは　中世に香料、染料、絹織物、穀物、塩などの商品を輸送していた。軽くて　高価な香料は特にガレー船で輸送していたという（私事ですが、このあた　り（レヴァント沖）で昔,船に乗ったことがあるが、航行は大変だったことだ　ろう特に 冬場は）。　というのもガレー船は最大級のガレー船でも２００トン、乗組員が２００人と　多数の漕ぎ手を必要としていたため、積載量が少なく、輸送コストが掛かる　為、香料を特に運んでいたのである。それでも、(軍用船として開発された　ので）速度や操縦性に優れていた。　　　　　　　　　　　　ガレー船（注）　　　　　　この挿絵の沢山のオール（櫂）から分かるようにガレー船は多くの漕ぎ手　　を必要としていた 　巻頭のマクニールは「平時や戦時における経験が、当然のこととして外海を　航行し得るような頑丈な肋骨と板の構造を作り出すのに必要な技術的発展　を刺激した、、、」と述べていることからもヴェネツイア人が(東方との交易で）　ガレー船の開発に長けていったことが分かる。　　参考：(中世ヨーロッパ　有斐閣新書より挿絵とも）　　　　　（ヴェネツイア　東西ヨーロッパのかなめ、Ｗ・Ｈマクニール岩波）　　　　　　　　　　ヴェネツイア・シリーズ⑧　(不定期にお送りしています） 　&amp;#160;　&amp;#160;</description>
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<dc:creator>yoku</dc:creator>
<dc:date>2011-12-10T11:32:03+09:00</dc:date>
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<p><br />　　　「ヴェネツイアは、かこい込まれた潟（ラングーン）という文字通り川と外海<br />　　　　の中間に位置しているために、このような実験を行なうには理想的な場<br />　　　　所にあった。緊急に際には、河川交通用の船が静かな潟（ラングーン）<br />　　　　の水をはなれて、広いアドリア海へとあえて出て行くこともしばしばあっ<br />　　　　たに違いない」（Ｗ・Ｈ・マクニール）<br /><br /><br />　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/P1026539.JPG" border="0" alt="P1026539.JPG" width="512" height="384" /><br />　　　　　　　　(今は観光用のゴンドラが長閑（のどか）に浮かぶラ・グランデ）<br />　　　　　　　　　中世には東方に向かう多くの商船で賑わっていたことだろう、、、、<br />　　　　　　　　　　<br />　　　　　　　　　　<br />　シリーズとしてお送りしているヴェネツイア(昨年年末から新年にかけて訪問）で、<br />　今回は交易国家として栄えたヴェネツイアの船の話は外すことが出来ません。<br /><br />　さて、その船の話であるが、レヴァント貿易に当たっていたヴェネツイアは<br />　中世に香料、染料、絹織物、穀物、塩などの商品を輸送していた。軽くて<br />　高価な香料は特にガレー船で輸送していたという（私事ですが、このあた<br />　り（レヴァント沖）で昔,船に乗ったことがあるが、航行は大変だったことだ<br />　ろう特に 冬場は）。<br /><br />　というのもガレー船は最大級のガレー船でも２００トン、乗組員が２００人と<br />　多数の漕ぎ手を必要としていたため、積載量が少なく、輸送コストが掛かる<br />　為、香料を特に運んでいたのである。それでも、(軍用船として開発された<br />　ので）速度や操縦性に優れていた。<br />　　　　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_2ac/yoku/PC106810.JPG" border="0" alt="PC106810.JPG" width="368" height="260" /><br />　　　　　　　　ガレー船（注）<br />　　　　<br />　　この挿絵の沢山のオール（櫂）から分かるようにガレー船は多くの漕ぎ手<br />　　を必要としていた<br /> <br />　巻頭のマクニールは「<u>平時や戦時における経験が、当然のこととして外海を<br />　航行し得るような頑丈な肋骨と板の構造を作り出すのに必要な技術的発展<br />　を刺激した、、</u>、」と述べていることからもヴェネツイア人が(東方との交易で）<br />　ガレー船の開発に長けていったことが分かる。<br /><br />　<br />　参考：(中世ヨーロッパ　有斐閣新書より挿絵とも）　<br />　　　　（ヴェネツイア　東西ヨーロッパのかなめ、Ｗ・Ｈマクニール岩波）<br /><br />　　　　　　　　　　ヴェネツイア・シリーズ⑧　(不定期にお送りしています）<br /><br /> 　</p><p>&#160;</p><p>　</p><p>&#160;</p><a name="more"></a>
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